宗教映画
意外にも、宗教に関する映画は多い。主人公が有名であり、また多くの集客を予想できるからだろうが、宗教には「信じること」が根底にあるので、劇に必須の信じることに通じるからだと私は思う。 日本で、2本作られているのは、日蓮宗の日蓮上人で、大映の『日蓮と蒙古大襲来』は、スぺクタクル映画でもあり、非常に面白かったが、錦之助が日蓮を演じた松竹の『日蓮』もかなりよい映画で、監督は中村登だった。...
View Article東大病の親の子はたいへんだなと思う
NHKで、女子高を出た女性の10年後が放映された。 その高校は、品川女子学院で、北品川駅近くにあり、私は10年以上住んでいた北品川の女子高である。 ここは、山口百恵さんが通った学校で有名だが、その他多くの芸能人も出ているようだ。...
View Article「俺は歩くよ」
テレビ神奈川で、ザ・よこはまパレードを中継していたので、私も歩いたことを思い出した。 それは、鈴木喜一先生が議長のときで、細郷道一市長に対しては、横浜商工会議所が気を使って、人力車を用意し、それに乗ってパレードしたのだ。 私は、「まずいなあ」と思いつつ鈴木喜一議長に言うと、先生はこう言った。 「いいよ、俺は歩くから、そうしないと喜一は議長になって偉そうにしていると言われちゃうからなあ」...
View Article『ヒトラーVSスターリン』
私は、革マル派ではなかったが、スターリンはひどいと思っていた。 当時から、1930年代のドイツで、社民党やその左派の共産党を支持せず、ナチスを支持したことも大体知っていた。 それは、どこから来ているのか、よく分からなかったが、これでよく分かった。 要は、スターリンは、ヒトラーに自分に似ているものを感じて、政治的立場は正反対でも共感するものを感じていたのだと思う。...
View Article井上貴子先生提供だった 『グローバル経済史』
放送大学の『グローバル経済史』の水島司先生の「アジアと産業化革命」を見ていたら、 インドの木綿製品のモデルとして薄地の生地がスタジオに吊り下げられていて、「井上貴子提供」となっていた。 今は、大東文化大学の教授となられた音楽学者の井上貴子先生に間違いないだろう。...
View Article『恋と涙の太陽』
1966年の松竹映画、脚本・監督は井上梅次で、当時、早稲田大学映研の金子裕君も、 「井上梅次は、もう古い」という意見で、私も同意していたので、見ていなかったが、この頃の井上ではましな方だと思う。 井上は、字書の中で「文芸作品などより、面白い娯楽作品を作る方が大変なのだ」と言っているが、それは正しいと思う。...
View Article『東京㊙地帯』
1971年3月、日活の末期で、当然にもダイニチ映配だが、さらにSMPプロと出る。 監督は、井田探で、当時 「日活の井田と東映の鷹森立一は見る必要はない」と言われていて、見ていなかったが、大変に粗悪な作り。...
View Article新宮から来た鈴木先生
六角精児のBSの『呑み鉄旅』の最後の駅が新宮だった。 私が小学校に入ったときの、1・2年は宮内さんという少々太った優しい女性の先生だった。 あだ名は「みやデブさん」だった。 この方は、絵は上手かったが、意外にも音楽はだめで、ピアノは弾けなかった。そのために音楽の時間は、別の組の二井先生という大柄な男の先生に代わってもらっていた。 この二井先生は、一見粗暴に見えたが、ピアノは非常に上手いのに驚いた。...
View Article『愛国と教育』
このすぐれたドキュメンタリーを見て、あらためて思うのは、第二次安部政権というのは、異常に変な時代だったなあということだ。 異常に右翼的な政策を進めたが、それは連立の公明党ではなく、維新の力によって実施したとも言える。 だが、その成果は、最後に東大の伊藤隆先生に言葉では、「不十分なもの」だそうで、安倍晋三君も、そう言われては可哀そう言うものだろう。...
View Article『ナイル殺人事件』 1978年版
雨で、出られないので、昔の映画を見る。見たと思っていたのは、『オリエント急行殺人事件』で、これは見ていなかった。 以下のような豪華な俳優陣である。言うまでもなく、これは「グランドホテル」形式で、ほとんどはスタジオで作れるという利点があり、豪華キャストが組めるのだ。 ポアロは、ピーター・ユスチノフで、適役。ジェーン・バーキンやオリビア・ハッセーまで出てくる。...
View Article『ピラニア』
以前に録画しておいたのを見る。 1978年のアメリカ映画の『ピラニア』、制作は、元日活の女優の筑波久子で、話題になったが、われわれの世代では、もう昔の人だった。 なにしろ、石原裕次郎以前のスターなのだから、ただこの女性も慶応出のインテリなのだ。...
View Article『しあわせの一番星』
山梨から、鎌倉の山形勲の家に、女中さんとして浅田美代子が出てくる。 日本には、女中映画があり、左幸子の『女中っ子』が有名だが、若水ヤエ子のシリーズもある。 女中は、今では差別語だが、元は「お女中」として、尊敬語だった。...
View Article松竹映画の演出術
『しあわせの一番星』は、浅田美代子の主演で、言わば演技の素人の彼女が結構様になっている。 これは、松竹の演出術によるもので、それは演技をさせないと言うことなのだ。...
View Article万国橋ビルだった
BSで、小林桂樹主演の『牟田刑事官』を見ていたら、その警察署の所在地は、万国橋の万国橋ビルだった。 ここは、現在は横浜のアパホテルになっているところで、今はないが、小型だが3階建てのきれいなビルだった。 そこには、本間船舶が入っていたので、私は仕事で行ったのだ。...
View Article近衛は、1941年8月末まで「国策要領」を知らなかった
昨日は、佐藤元英先生の『真珠湾への道』をネットで見る。配布された資料で、以下のことを知る。 問題の日米開戦のことだが、その前の日本の最高決定会議であった1941年9月6日の「御前会議」に、この『帝国国策要領』が出されるが、陸海軍の統帥部が作成していた米国への戦争開始を、何と近衛文麿首相は知らなかったと言うのだから信じがたい。 8月中はまったく知らず、9月2日に初めて知ったのだそうだ。...
View Article日本も米国の暗号電報を解読していた
先日の佐藤先生の講義の中で、重要なことの一つは、日本も米国外務省の暗号電報を解読していたことだった。 だから、例のハル・ノートが来て、アメリカも戦争準備になるだろうことを予測していたとのこと。 問題の真珠湾攻撃の通告が遅れたことも、その意味では大問題だとは思っていなかったようだ。...
View Article出来なかったことは知らないのだ
金曜日の夜は、野毛で「山下ふ頭に〇〇があったらいいな」に行く。 ここでも、みなとみらい等で、結局はできなかった事業が議論されていた。 その典型が、横浜、東京、幕張等をつなぐフェリー航路や映像スタジオの誘致である。...
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