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Channel: 指田文夫の「さすらい日乗」
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新宮から来た鈴木先生

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六角精児のBSの『呑み鉄旅』の最後の駅が新宮だった。

私が小学校に入ったときの、1・2年は宮内さんという少々太った優しい女性の先生だった。

あだ名は「みやデブさん」だった。

この方は、絵は上手かったが、意外にも音楽はだめで、ピアノは弾けなかった。そのために音楽の時間は、別の組の二井先生という大柄な男の先生に代わってもらっていた。

この二井先生は、一見粗暴に見えたが、ピアノは非常に上手いのに驚いた。

そんなことをやっている内に、お二人は親しくなられて、ついにはご結婚されることになった。

そして、宮内先生は、別の学校に移られ、3年になるとその後任で鈴木先生が来られた。

        

鈴木先生は、和歌山県の新宮から来られた方で、小柄な女性だったが、非常に厳しい方だった。

母によれば父兄会で、先生は

「東京の子供は甘やかされいるので、今後はきびしく教育する」と宣言されたとのことだ。

事実、私はあまり怒られなかったが、田辺君などは、なんども

「田辺君、今なにをした!」と大声で怒られたそうだ。

当時、和歌山と東京の地域格差は大きく、その地域差が、鈴木先生の怒りの元だったのではないかと今では思っている。

だが、幸いにも、この厳しい鈴木先生は、1年間だけで、4年になると、再び女性の先生で、かなり年配の奥田先生になった。

この先生は普通の方だったが、ダンスがお好きで、われわれ男の子も踊らされるのには参った。

後に、この方は、どこかの校長先生と「玉の輿結婚」されたと聞いた。

そして、最後は飯伏さんという男の先生で、相当に厳しく、時には竹の杖で生徒を叩くなどもあり、今では完全に暴力教師と非難される人だった。

そして、この方は、日教組の熱心な活動家だったようだが、私は意外にも好きだった。

その理由は、よく怒る人だったが、単純で分かりやすい男だったからだ。

奥田先生も、たまに怒られることがあったが、それは理由が不明なことが多く、

子供ながらにも「女性の感情はよく分からないなあ」と思ったものだからだ。

女性の不可解さを初めて知ったときだと思う。

 

 


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