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Channel: 指田文夫の「さすらい日乗」
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田村光男の旅立ちの夕 魂呼ばり

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昨年、11月21日に67歳の誕生日に亡くなったプロデューサー、ディレクター田村光男の旅立ちの会が四谷のLOTUSで行われた。

7時からで、多くのミュージシャン、アーチスト、関係者が来て、満員盛況だった。

まず、1989年にベルギーで行われたユーロパリア・ジャパンで一緒に蜷川幸雄の『心中近松物語』を連れていった元東宝の中根公夫さんがご挨拶。「今も、天国で、ここはアフリカの太鼓を入れる、笛はインドネシアで、だから邦楽は駄目なんだなどと弁天様に文句を言っているはず」と笑わせる。

国際交流基金理事長の安藤裕康さんからは、外務省時代にいた若き日の交流のことなど。

キリンビールにいて、六本木のハートランドを担当されていた前田仁さんの発声で献杯。

そこからは、鬼太鼓座の松田さんから始まって多くのミュージシャンの演奏。

日比谷高校の同級生3人からの高校時代のこと。夏休みに安チケットで欧州等を回ったのは初めて聞いたが、当時から国際的な視野があったわけだ。

日比谷では、演劇とオペラで、その延長線上になぜか劇団四季の演出部に入る。彼の政治的信条からみれば不思議だが、当時は四季くらいしか音楽と演劇をやっている劇団がなかったからだろう。1年後に早稲田に入学し、劇団演劇研究会に入って来て、役者や照明をやっていたが、2年の時にやめる。

誰も言わなかったので、書いておくが、その頃に新劇人反戦に入りメンバーの一人として活動したいたようだ。

新劇人反戦の代表的メンバーは、蜷川幸雄と真山知子夫妻で、よく集会等で姿を見かけたものだ。

また、まったく逆だが、日比谷の音楽部時代の仲間の一人に連合赤軍事件で無期懲役になった吉野雅邦がいる。

要は、そういう時代だったので、誰もが一歩間違えれば、考えもつかない方向に行ってしまう時代だった。

田村は、爆弾製造もやっていたことがあるそうで、1973年の新宿のクリスマス・ツリー爆弾事件の時は、新劇人反戦のメンバーの内の一人が被告になり、だいぶ前に刑を終えて出て来たので、お祝いをやったところだと聞いたことがある。

彼とは、20年以上音信不通だったのだが、1989年に私は、パシフィコ横浜に出向し、なぜかオープニングイベント担当にされた。

これは猫に小判ならぬ、ネズミを与えたようなもので、喜んでまず各種の調査から始めた。電通をはじめいろいろとヒアリングしたのだが、その中で「指田さんも早稲田なら田村と言う人を知っているでしょう」と聞かれ、田村と20年ぶりくらいに再会したのだ。

彼はその頃すでに、ビロード革命以前のチェコ・スロバキアに行っていて、田中泯さんの公演をやっていた。その時の劇場の代表は、後にチェコの大統領になるバツラフ・ハベルである。彼は、当時は反体制のアンダーグラウンドの人間だったのだ。

その時、彼はすでにイギリスの「ウォーマッド」を知っていて、中村とうようさんが監修された2枚組LP『ミュージック&リズム』も持っていたのだ。

 

                   

 

 

        

 

                    

                 左はアルトサックスの梅津和時                         右が田村光男

すぐにウォーマッドをパシフィコ横浜のオープニングイベントとすることに二人で決めたのである。

ウォーマッド横浜は、1991年から1995年までやることができた。言うまでもなく田村の力である。

なぜ続かなかったのか、残念だと言う人は多い。

でも、私も田村も、イベントはその時に燃えてみなに感動を与え、記憶に残れば良いと思っている。

それは、おいしい料理の味が、保存できないこと、さらに究極の比喩で言えば、セックスの快感が保存できないことと同じだと私は思っている。

ただ、人の記憶に残っていればそれで良いのである。

田村光男のやったこと、やろうとした意思は永遠に皆の中に残っていくに違いないと思った一夜だった。


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