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Channel: 指田文夫の「さすらい日乗」
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遠い葬式に行く

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大学の劇団の後輩の一人、青木が死んだと大高から電話が入ったのは、池袋での三国連太郎の映画を2本見た後の品川駅だった。

特に親しい人間でもなく、当時私は、酒を飲めず、麻雀もできなかったので、劇団の外でもほとんど付き合いはなかった。

ただ、私が親しかった友人らの仲間だったので、何かと顔を合せて来た。

その程度の人間の葬式になぜ行くことにしたかと言えば、彼とはもう二度と会うことは絶対にないからである。

それに場所が、東京の瑞穂町だとうのも興味があった。瑞穂町とは、言うまでもなく横田基地の町である。

私の叔母さん、父の妹の一人が、瑞穂町の人と再婚していたことがあり、その叔母さんはとっくに亡くなられていたが、相手の方と娘さんがいたので、父に連れられて遊びに行ったこともある。

父から見れば、妹の結婚相手であり、姪になるからである。

埼玉の奥に住んでいた、やはり父のもう一人の妹の家に遊びに行った帰りで、多分八高線を使ったのだと思う。

当時、八高線はまだSLが走っていたので、父がそれを見せてくれたのだとも思う。

ひどい田舎だったという記憶しかないが、やはり記憶の中でも茶畑の上に米軍機が飛んでいた。

さて、川崎の田園都市線の駅で大高夫妻と待ち合わせて、彼の車で瑞穂町に向かう。

車のカーナビの調子が悪かった上に、結構道路がこんでいたので、葬祭場についたときは、告別式が終わるところだった。

浄土宗らしい僧侶の話が終わり、焼香し、特別にお棺のなかの顔を見せてもらう。

死人なので、顔色が白いのは当たり前だが、顎の張った厳つい顔付きだっのに、小顔が花に埋まっていた。

聞くと胃ガンで、分かったときは手遅れだったので、手術はしなかったとのこと。

65歳で、私とは全く同い年である。

祭壇には、親族に混じって家業のコンビニの関係企業のものの他、地元の少年団、スポーツチーム等からのものがあり、その他地元団体のが多くあった。

彼は、8年で大学を卒業した後は、自らは芝居等には一切かかわらず、家業と地元活動に精出していた。

巷では、退職した団塊世代が、地域にどうやって溶け込み、生きがいを得るか等が言われているが、彼はそれを40年前にやっていたことになるのだろうか。

家の家業とは、元は中野の牛乳屋であり、転業後はコンビニであった。

意外にも先見の明があったことになるが、

店には「大滝詠一という人がよく来ますが、この人は有名なのですか」と聞かれたこともある。

帰りは、横田基地の横の道を延々と走って相模原から町田、そして横浜へと戻る。

瑞穂町は、町なのに他と合併せずに町で頑張っているとのことだが、これも横田基地故の基地交付金の力だろう。

同様の市に、大和市があり、ここは図書館などの社会教育施設が規模の割に結構立派で驚いたことがあるが、それも基地交付金の賜物であるそうだ。

気持ちの良い男だった青木の冥福を祈る。


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