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Channel: 指田文夫の「さすらい日乗」
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極めて自由な文学座

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文学座の演出家・西川信廣の講演というか、お話が行われた。

横浜市あざみ野の市民ギャラリー。

西川は、10代の終わり頃、付き合っていた女性が大阪にいたことから関西に行き、京都のある劇団の団員になる。

1960年代の終わり頃だろう。

だが、そこで研究会を始めたところ、「分派活動だ」とのことでクビになる。

その時、仲間の一人が「民芸で演出部員を募集しているよ」というので一緒に受ける。

最初の面接では、志望理由を聞かれ、「民芸の芝居が面白くないので、自分が変えるためです」と言い切り、なぜか合格し、友人は落ちた。

ところが、宇野重吉以下の最終面接では、「これは受かるな」と思い、動機を聞かれて、

「民芸は社会主義リアリズムで正しいので・・・」とつい日和って嘘をついてしまい落ちた。

悔しいので文学座に入ることにした。

だが、文学座は非常に自由な体質の組織で、あるとき戌井一郎の演出助手をやっていて、戌井先生の解釈に疑問があり、

「先生、僕はここはこう思うのですが」と言ってしまった。

すると戌井は、「それは面白い、みなさんに言ってください」と答えてくれたそうで、俄然やる気が出たそうだ。

また、江守徹も、彼が最初に『ハムレット』を演出・主演したとき、彼は西川を演出助手にしてくれた。

ところが、前に江守が別の演出家で『ハムレット』を演じたとき、西川は演出助手だった。

その時、いろいろ演出法に疑問があったので、密かに江守にそれを言うと、彼は「うんうん、よくわかった」と言う。

だがそのとき、江守は、西川の言うとおり一度もやってくれなかった。

そんなことがあったので、「なぜ今度は私を助手にしたのですか」と聞くと、

「あの時は演出家がいるので、助手のお前の言うことは聞けないだろう、今度は俺は出番もあって見てられないので、全部お前がやってくれ」と答えたそうだ。

 

対照的なのは、俳優座の千田是也先生で、あるとき彼のブレヒト劇の解釈について、助手が「先生、実はこう思うのですが」と聞いた。

すると千田は「君の言ったことは誰々の本のどこどこに書いてあることだ」と答えたそうだ。

これでは新人は育たない。

1960年代の終わりに、俳優座では「反乱」が起き、最後は分裂劇になった。市原悦子、中村敦夫や原田芳雄が退団した時のことである。

この時の首謀者は、トロッキストの中村敦夫だと世間では言われていた。

だが、真相は違い、長く千田是也の助手をやっていて、市原悦子の夫塩見哲だった。

事実を知ったとき、千田是也は

「京大を出て、ずっと演出をさせなかっことが塩見の反抗の原因だったのか」と思い当たったそうだが、時すでに遅し。

千田是也が死に、小沢英太郎、東野英治郎、仲代達矢、平幹二朗らが去った俳優座は、本当に昔の面影はない。

以前から、私は「俳優座、オリックス説」を唱えて来たが、その原因の一つは、左翼党派の持つ、前衛が遅れた人間を指導するという体質にあったのだ。

西川が英国留学から戻ってきた1980年代末は、まさにバブル期で、多くの冠公演が行われ、人材の交流があったので、様々な場で演出するようになったそうだ。

草笛光子、大地真央らだが、特に米倉涼子のが面白かった。

 

当初、米倉は、テレビのように彼女が開いたクラブに様々なゲストを迎える構成を主張した。

だが、彼女は、左とん平や岡本健一らの演技合戦を見て俄然やる気になり、自分も他の役者の芝居を真剣に見るようになった。

その頃は、市川海老蔵と付き合っていて、心配で海老蔵も稽古を見に来ていた。

適当な時に、西川が「涼子ちゃん、本当にゲストを出すの?」と聞いたところ

「いらない!」と言って本当に劇にのめり込んでしまったとのこと。

これは少々意外だったが、今度は米倉涼子の芝居を見に行くことにしよう。

終わった後、「京都の劇団はくるみ座ですか」と聞くと

「くるみ座ではなく、京都ドラマチック・シアターという今はない劇団」だったそうだ。

9月の『熱帯のアンナ』は、キューバを舞台にしているので、必ず見に行くことにする。

 

 


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