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Channel: 指田文夫の「さすらい日乗」
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『母を恋はずや』

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1934年の小津安二郎監督のサイレント映画、1巻目と最後の1巻もない作品だが、上映が終わると場内に拍手があったのは、伴奏のピアノ奏者へだろうか。

             

話は、おそらくは富豪の家の二人の息子、小6と小2年の家で、父親の岩田佑吉が倒れたとの電話が学校に来る。

校庭を箒で掃除している男は、坂本武である。

実は、私も小6年のとき、3月の卒業文集を学校に残って作っているとき、家から電話があり、戻ると3女の姉がいて、二人で入新井の赤十字病院に行くと、父は高いびきで寝ていて、その日の夜中に亡くなってしまった。

次のシーンでは、家の岩田の写真には、黒布が掛けられていて、死んだことになっている。

まことに、テンポよく簡潔に描写されている。

そして、郊外に引っ越しする。

母親は、吉川満子で、戦後も映画各社で母親役をやっていた方であるが、もちろん若い。

そして、大学本科になった長男大日向伝は、自分が吉川の子ではないことを知り、次第に反抗的になる。

この筋は、余計だったと小津は後に言っているようだが、その最初の妻と岩田との関係が語られないのは、変だが、仕方ないだろう。

そんな大日向の態度を、二男の三井秀男は、母への態度がひどいと強く非難する。

だが、横浜のチャブヤに入り浸っている大日向は、家を出ることで、母と二男への申し訳にする。

ここは明確に描いていないが、家の財産をすべて自分は放棄し、母と三井に上げることを意味しているのだと思う。

この映画が描いているのは、戦前の日本社会は、現在とまったく異なり、完全な自由主義経済であり、いったん失敗すると、貧困にまで落ちてしまう、当時の資本主義社会の問題点と恐ろしさである。

その意味では、小津安二郎が、これや映画『戸田家の兄妹』で描いているのは、小泉純一郎・竹中平蔵の「新自由主義」社会の自己責任の恐ろしさである。

小津安二郎は、小泉・竹中路線の間違いまでも見通していたのだろうか、すごいと言うしかない。

 


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