『大菩薩峠』の映画もいろいろあるが、一番好きなのは、市川雷蔵主演の大映版である。
これは、1部と2部が、三隅研次監督で、3部が森一生で作られたもの。
三隅が、映画『釈迦』の準備で忙しかったので、森一生になったとのことだが、できはさすがである。
脚本が衣笠貞之助で、この映画というか、中里介山の物語を貫いているのは、江戸時代の表の社会の裏にある下層社会の姿だろうと思う。
この辺は、介山には、もともと社会主義のような、社会の底辺の人々に寄せる意思があったからだと思う。
ただ、これを強調すぎると、3部の冒頭で、近藤恵美子が唄う「相の山」への過剰な意味づけになってしまうと思う。
昔、東映製作の「人権啓発映画」で、内田吐夢監督、片岡千恵蔵主演のこれで、ここから人権問題に行く映画があり、少々困ったものだ。
ここでも、近藤恵美子、阿井三千子、矢島ひろ子、中村珠緒と、次々に雷蔵の机竜之介を世話する女性が出てくるのが、昔の映画だとしても、都合が良いと思うが、それがスター映画である。
途中で竜之介は言う、
「世には、偉くなることが好きな者、金を貯めるのが好きな者がいる。私は、人を切るのが好きなので、切るのだ」
こんな無意味な動機付けで、やたらに殺されてはたまらないが、甲州での辻斬りなど、本当にひどい。
対して、竜之介を仇と狙い、行こうとする本郷功次郎の宇津木兵馬に、荒木忍の僧侶が言う、
「仇討ちなどくだらない、その感情は分かるが、無意味なことだ」と。
そして、最後、やや取ってつけたように、甲府に洪水が起き、濁流に流される藁ぶき屋根にいる机竜之介を見る本郷に向かって荒木忍が、
「あれだ・・・」というと宇津木兵馬もうなずく。
仇討ち、復讐など、無意味なことで、非近代の行為と江戸幕府では、禁止した徳川家康は偉いと思う。
イスラエルのテルアビブに行って、ネタニヤフなどの右翼ユダヤ主義者に見せたくなる映画だった。
仇討ちなど、非近代の仕業で、現在の国際秩序に反するものなのだ。