BSの「予告編特集」には、いろいろと面白いことが出ている。
その一つが、大船の助監督だった三村晴彦が、監督の加藤泰の名を知らなかったというところだ。
加藤が、松竹大船に最初に来たのは、『男の顔は履歴書』だから、1966年だろう。
すでに東映で、『三代目襲名』や『遊侠一匹』などの名作を作っていた後のことで、鈴村たけしさんが聞いたら、卒倒してしまうに違いない。
当時、松竹大船には、瀬川昌治、渡辺祐介らの他社の監督が来ていたが、
「東映京都のヤクザ映画の監督」と聞き、ますます不愉快になったそうだ。
だが、加藤が、撮影に当って、ノートに全シーンのコンテができていて、その通りやればよいのだが、ところどころ白紙で、
「なにか、音がほしい」とか「ほうしなイメージがなにか、教えてください」などと書いてあって、全スタッフが知恵を出さないとまずいように持って行くのに感心したそうだ。
要は、「スタッフ全員で映画を作るという姿勢」で、大船の渋谷実の秘密主義で、名人芸は自分で盗めというのと正反対で、大変に驚いたそうだ。
それは、戦前に東宝を首になり、満映に行き、戦後戻ってくるが東宝には戻れず、なんとか新東宝の傍系の宝プロで監督をしたが潰れて、仕方なく大映の助監督に戻るが、レッドパージで首になる。
そしてやっと東映京都で監督になったという加藤泰の経験から来たものだと私には思える。
もっとも、山田洋治は、加藤に激励の手紙を出したことがあるそうで、当時から山田洋治は、勉強家だったということになる。