正編が面白あったので、続編も見る。
ただ、ここでも主人公は戸田城聖の丹波哲郎であり、池田大作氏のあおい輝彦は、脇役的存在である。
これで良いのかと思うが、やはり戸田という人は、面白みのある人だったからだろう。
終わりの方で、信用組合の倒産で債権者に告訴されたとき、検察の部長の青木義朗が現れて、
「この人は嘘をつくような人ではない」と添え状を書いてくれて、無事釈放されるのだから、魅力的な男だったのだろう。
戦後、戸田は学会活動と共に、出版社の正学館を再建し、小説や雑誌を出すが、大手が復活して来て押される。
そこで、代わりに建設信用組合を作るが、インフレ経済再建のドッジ・ラインによって一挙に金融引き締めになり、それもダメになる。
この間、資産家の志村喬の援助を受けていたが、彼の指摘が面白い。
「事業家がだめになるのは、政治と宗教だ」
その通り、戸田は宗教でダメになるわけだが、この頃、学会の会員からは、一切会費を取っていなくて、事業の方から、学会の広報、さらに講演会等の費用は出していたようだ。
信用組合がつぶれるとき、新聞記者の取材を受けて、戸田は新聞の威力の大きさを知り、すぐに新聞を作ることを思いつく。後の聖教新聞であり、池田が責任者になる。
さすがに戦後の同時代を生きて来た監督の舛田利雄だけあって、仕事で疲れたあおいが入る映画館で上映しているのが、1949年の東宝の『青い山脈』
やくざの渡哲也に招待された料亭のシーンの裏に流れているのが、美空ひばりの『越後獅子の唄』とは泣かせる。
最後、渡哲也は、敵対する組の親分の葬式に殴り込んで殺されるが、その寺は池上本門寺のように見えた。邪教の本門寺を学会が使っていいのでしょうかと思う。
あおいが、破れた靴下を縫うのに電球に被せるなど、時代考証も正しい。
戸田と池田、ここでは山本伸一だが、大石寺に行き、戸田は、日蓮から啓示を受けて、学会活動に専年することを決意する。