衛星劇場で、『黒の挑戦者』を見ていて、学生時代に東京12チャンネルで、『田宮二郎ショー』の美術のアルバイトをしていたときのことを思い出した。
1967年の春休み中で、スポーツ新聞では日活が多摩川撮影所を売却する記事が出ていた。
「あの日活がスタジオを売るの?」と驚いたものだ。
当時の12チャンネルで、唯一のスタジオ制作の番組が、『田宮二郎ショー』で、彼を主人公に毎回内容が異なるバラティ・ショーだった。
美術部の棟梁は、元は東宝の美術にいた方で、芝居の美術にも詳しく、
「伊藤喜朔さんなんかは、すごかったねえ・・・」と二言目には言っていた。
そこの美術は、東宝から来た方がほとんどで、言わば現場の職人レベルでも、映画からテレビ界へと人員の移動が起きていたのだ。
彼ら、職人は大変に技術は上手くて、学生劇団の素人の私には到底かなわず参ったものだった。
さて、その棟梁も「田宮二郎は、歌も踊りも芝居も上手いのに、どうして映画に出られなくなったのか、不思議だねえ」と嘆いていた。
その通りで、戦後の日本映画界で、彼ほどルックスと芝居はもとより、歌、踊り等も上手かった男優はいないと思う。
ただ、この映画『黒の挑戦者』を見ても、どこか映画に乗れていないように見えた。
たしかに、この企画は、「黒のシリーズ」の1本だが、弁護士で探偵の「南郷次郎探偵帖」で、元は島田一男原作で新東宝でも作られたものなのだ。
恐らく田宮二郎は、映画『白い巨塔』のようなシリアスな作品に出たかったのだろうと思う。
その意味では、映画ではなく、テレビ界で望みを実現したわけだが、最後は不幸な結果となったのは、やはり彼の性格的なものなのだろうとしかいうしかないだろう。