朝日カルチャーセンター横浜の「東京裁判資料から読み解く日米交渉と海軍の態度」の最後、6回目をオンラインで聞く。講師は、中央大学の佐藤元英先生。
この先生は、非常にまじめで面白いのだが、資料に拘ることが多く、どこが重要なのか、初めに言わない。松竹映画では、城戸四郎からは、絶対にダメとされて、1本も映画化されない助監で終わるだろう。
今日も、最後に重大なことを言われる。
それは、1941年10月の近衛内閣の重大局面で、近衛首相等と東條陸相が対立し、日米交渉はもう無理とする陸軍側となんとか交渉を続けようとする近衛首相、海軍、外務省との対立が続いていた。
そして、10月14日深夜に鈴木貞一企画院総裁が近衛文麿のところに来た。
そして、その前に東條英樹と話してきたが、彼は、
「もうこうなったら、東久邇殿下に首相をお願いするしかないと思う」と言った。
そして、この案は、木戸幸一から昭和天皇に伝えられて、天皇は「皇族が首相になって失敗したら後がない」でダメになったとされていたが、どうやらそうでもなかったようだ。
この前後に、東久邇氏も婉曲的に辞退していたそうで、この時期、すでに誰も責任を取る人がいなくなっていたことが分かる。
最後、東條英樹が首相にされたのも、「ビンボウくじ」を引かされたとも言えるのだろうか。
さらに、東條が首相に指名されたとき、昭和天皇から、9月の戦争やむなしの「御前会議」決定をもう一度最初から見直せ、言われたとされているが、これも実は東条英機は、最初から見直そうと思っていたとのことだ。
この辺は、従来言われていたことと違うので、新発見の説だと私は思うのだが。
佐藤先生は、中央大学に寄贈されていた、東京裁判での陸軍の岡軍務局長への弁護士・宗宮信次氏の関係資料から読んだとのことだ。
これが、今後昭和史の天皇をはじめとする宮中の政治的動きの解明に、どのような影響を与えるのかは、私には分からないが。
一言でいえば、「壮大な無責任体制」だったというべきだろうか。
その証拠に、誰も敗戦の責任を取っていないのだから。