ユーチューブで、ロジャーニコルズから、大滝詠一の『日本ポップス伝』、さらに『アメリカ・ポップス伝』を見て、最後に、1977年6月に渋谷公会堂で行われた『ファースト・ナイアガラ・ツアー』のラストのフィルムを見た。
このツアーのフィルムの全体のもあるのだが、これには冒頭の語り、「月曜8時は紅白歌のベストテンではなく・・・」と言って始まったことを憶えていて、ここはそこにはない。
大滝の名を知ったのは、まだ芝居をやっているときで、効果をやってくれたMさんという人が、さすがにこの辺の音楽に詳しく、聞いて驚いたのだ。
「こんな音楽があるのか」と。
最初の『ナイアガラ・トライアングル』が出た頃で、ラジオ関東の『ゴーゴー・ナイアガラ』も聞いていたと思う。
さて、このコンサート・ツアーの目玉は、ナイアガラ・レーベル最初の女性歌手シリア・ポールのデビューで、ここでも当然、真ん中で昔の女性シンガーのような衣装で出てきて、『夢で逢えたら』などを唄った。
ここは、はっきりと憶えている。
だが、ラストの「ナイアガラの社歌、ナイアガラ音頭」はまったく憶えていないのだ。
理由は、歌手の布谷文夫をあまり知らず、またフィルムで見ると、舞台に浴衣の女性たちが出てきて、音頭を踊るのだが、そこにシリア・ポールが出てこなかったのが不満で、記憶から消したのだと思う。その後、彼のレコードも買ったので、布谷さんも知ったが、彼は2012年に亡くなっている。以下は、その時のもの。
一部の新聞に出ていたが、布谷文夫が死んだ、64歳。
「日本のロック歌手の草分け」と出ていたが、それほど有名な方ではないだろう。
私も、大瀧泳一の「ナイアガラ」での『ナイアガラ音頭』等で知った。
だが、実は、はるか以前、ブルース・クリエーションでデビューしていたのだ。
その後は、大瀧らに参加すると同時に、サラリーマンであった時期もあったようだ。
こういうマイナーな方は、いずれ忘れ去られて終わりだと思うだろう。
だが、私は少し違うと思っている。
フェリーニの『道』の中の道化師のセリフではないが、「石ころにも意味はある」のである。
このツアーの主役の大滝詠一も、2021年に亡くなった。リンゴが喉に詰まったとのことだったが、実は動脈乖離だったそうで、私と同じだが、私のは脳の動脈乖離で、これとは違うようだ。