今は、死語になった言葉に、文化映画がある。
これは、記録映画、ニュース映画、PR映画等を含む言葉で、1942年の映画法の成立によって、日本中の映画館では、これらの上映が義務ずけられたのだ。
同時に、当時200社あったと言われていた文化映画社は、最終的には4社に統合された。
このとき、劇映画では、約20社あったというのを、情報局は、東宝と松竹の2社に統合しようとした。
この情報局案に異論をとなえたのが、当時は新興キネマ京都撮影所長だった永田雅一で、彼は一番古い歴史ある日活を潰すのはけしからとして、新興キネマを中心に第3の会社大映を作ってしまうのだ。
永田は、もともとは日活の宣伝部にいたので、日活への思いがあったのだ。
このとき、これに異をとなえたのは、当時日活の社長だった堀久作である。
彼の意見は、これまた興味深いもので、「映画会社の統合・統制は、製作部門のことで、他は関係ないとして、日活を分割し、スタジオは大映に渡すが、全国の映画館と本社の配給部門は旧日活に残した」のだ。
つまり、旧日活作品は、1943年以前は、日活に残されたので、それは今もそうだが、阪妻の『無法松の一生』は、大映作品と言ったぐあいなのだ。
さて、1945年の日本の敗戦で、映画法も無効となるが、戦後のGHQも、日本の民主化には映画による社会教育は有効だとしたので、文化映画は、依然として興隆をほこった。
また、占領軍は、全国の学校等に、ナトコ映写機を配布し、文化映画の普及を促進した。
こうした文化映画の勢いが止まり、完全に消滅していくのは、言うまでもなくテレビの普及だった。
テレビのニュースは、映画のニュースよりもはるかに即時的なので、このニュース映画部門からは、多くのスタッフがテレビの報道部に再就職していくようになる。
この辺は、フランキー堺の映画『ぶっけ本番』でよく描かれていて、若手カメラマンの仲代達矢は、日映新社からテレビ局に移っていくのである。
このように文化映画は、次第にテレビに取ってかわれれるようになるが、その頂点は1964年の映画『東京オリンピック』だった。
その制作部門には、日本中の文化映画のスタッフと機材が集められて、あの大傑作が生まれたのだ。
そして、この後、多くのスタッフはテレビかピンク映画に移行して孝いくのである。
また、同時に制作縮小していた京都の松竹や東京の大映からも、多くの監督がピンク映画に行く。
今は自民党の役員になっている新藤義孝議員の父親の新藤孝衛氏も、大映からピンクに移行した監督だった。あるいは、東映京都で『新諸国噺シリーズ』を作った萩原遼氏、さらに松竹京都で『二等兵シリーズ』を作った福田晴一氏も、ピンクに行くのである。
その意味でも、1964年の東京オリンピックは、日本の大衆文化で大きな意味を持っていたのである。