映画『愛と死をみつめて』は、1964年9月、東京オリンピックの最中に公開され、4億円のヒットになった。監督西河克己によれば、メロドラマの背景には戦争や革命などの大事件が必要で、『風と共に去りぬ』も『君の名は』もそうで、平和の時代には、難病ものしかありえないそうだ。まさに、これは難病に冒された大島みちこさんと、その友河野実氏との往復書簡を基にしたベストセラー本のドラマ化で、最初はテレビの『東芝日曜劇場』での大空真弓と山本学の主演作だった。
それが、日活の青春スターの吉永小百合と浜田光夫の共演で映画化されたが、監督が小林旭の「渡り鳥シリーズ」の斎藤武市ときき当時私は非常に驚いた。だが、斎藤は、もとは松竹の小津安二郎の助監督で、女優の田中絹代が日活で監督をするので、その補佐役として行かされたので、本来メロドラマ的な作風で、その代表には『名付けてサクラ』などの作品があった。それが、ペギー葉山のヒット曲の映画化の『南国土佐を後にして』が大ヒットし、「渡り鳥シリーズ」になったのだ。その多数のヒット作の功績への「ご褒美」として、『愛と死をみつめて』の監督になったとされている。
この作品の4億円のヒットの裏で、ひそかに当たっていたのは、勝新太郎の『座頭市』と、実はピンク映画だった。ピンク映画は、1962年の新東宝の破産によるものとされているが、実は日本の文化映画の最後の輝きだった映画『東京オリンピック』の終了後起きた、ニュース映画や文化映画の後退によるスタッフの転向も原因の一つだった。つまり、1964年の東京オリンピックを契機に、ニュース映画、文化映画はテレビに完全にとって代わられることになる。その例として、ピンク映画監督で後に有名になった山本晋也も、岩波映画の人間として陸上競技の撮影に参加していたが、オリンピック終了後、ピンク映画界に入ったのである。
そして、映画『愛と死をみつめて』の5か月後の1965年2月、鈴木清順監督の『春婦伝』の撮影で、朝鮮人の娼婦役野川由美子が、荒野を走る時、全裸の体に日本で最初に「前張り」を付けたが、これが後の前張りの嚆矢となったのだ。
さらに、5年後の1971年秋には、大映との敗者連合のダイニチ映配もダメだったので、大映は倒産し、日活はロマンポルノ路線に転向していくのである。
その意味では、映画『愛と死をみつめて』は、戦後映画製作を再開した日活の最後の輝きだったと思うのだ。