1993年に、山本の没後10年を記念して作られた作品、脚本・監督は片桐直樹。
この人は、大島渚の創造社でも助監督をやっていたが、元は独立プロなのか。
山本は、1910年に鹿児島で生まれたので、黒澤明とまったく同年である。
父は、国の官僚で営林関係で、松山にいたとき、山本は、兄を通して、松山の伊藤大輔、伊丹万作、中村草田男らの芸術青年らの知遇を得て、早稲田大学では、演劇と同時に左翼活動で弾圧も受ける。
そして、画家の重松鶴之助の自殺に衝撃を受けて、伊藤を通じて映画界に入る。松竹だったが、監督成瀬己喜男に付いて、PCLに入り、1937年の『母の曲』のヒットで、高い評価を受けた。
1943年、33歳で招集されて中国に行く。
このように、同じ1910年生まれなのに、黒澤明が一切の徴兵を受けていないのは、大変におかしなことなのである。
戦後、復帰した東宝では、組合活動が盛り上がり、これに対して米軍のレッドパージが行われたとされている。このストライキの際のデモ行進の映像は貴重なものだ。
さて、このレッドパージで、山本、今井正、亀井文夫らが弾圧を受けたというのは、歴史的事実としても誤謬である。
レッドパージは、1950年以後のことで、東宝ストは1948年であり、東宝で大ストライキが起きた原因は戦時中の東宝の構造にあったのだ。
この映画でも言っているように、1941年の映画法によって、多くの映画会社は統合され、東宝も多数の映画会社が統合されてできた。さらに、戦時中には、秘密スタジオの航空教育資料製作所が作られて、陸海軍や軍需企業向けの「マニュアル映画」を製作していて、多数の人員を抱えていた。
そこに戦時中に海外等へも行っていた復員兵らも戻ってきたのだから、人員が大変に余計になった。
その上に、航空教育資料製作所の注文先だった陸海軍や軍需企業も亡くなったのだから、注文はないのに、人員オーバーでは会社が立ち行かなくなり、そこで大量の首切りが行われたのだ。
これが、東宝争議の真実だが、そんなことはどこにも描かれない。
東宝を出た山本は、伊藤武郎ら元組合幹部と新星映画社を作り、『暴力の町』を作る。
伊藤武郎のインタビューは、私も初めて見たが、彼の息子伊藤昌洋は、大映最後の映画、増村保造監督の『遊び』のチーフ助監督をしている。彼には、3人の子がいたが、昌洋以外は、「映画の仕事は大変」とのことで、映画と無関係の会社員となったそうだ。
だが、山本薩夫の息子は、二人とも映画のカメラマンと制作者になっているのは、対照的である。
新星映画社は、山本の他、今井正らの映画も作ったが、『真空地帯』の後の『太陽のない街』の予算オーバーで倒産してしまう。
その後は、さまざまな製作主体と協力しつつ、5社でも映画を作るようになる。
それは、娯楽映画も自在に監督できる山本手腕で、それは彼が、もともと絵描き修行をしていたことによっていると思う。
特に晩年は、コンテ主義で、能率的に映画を作っていたそうで、その点のコンテ主義では、黒澤も同じだったが、黒澤明が1970年代以後は、5年に1本しか作れなくなったのとは対照的である。
1934.04.26 限りなき舗道 松竹蒲田 ... 助監督 1937.07.08 お嬢さん P.C.L. 1937.12.11 母の曲 前篇 東宝映画東京 1937.12.21 母の曲 後篇 東宝映画東京 1938.06.11 田園交響曲 東宝映画東京 1938.09.29 家庭日記 前篇 東宝映画東京 1938.10.13 家庭日記 後篇 東宝映画東京 1939.01.05 新篇 丹下左膳 隻手篇 東宝映画東京 1939.02.21 美はしき出発 東宝映画東京 1939.08.20 街 東宝映画東京 1939.11.10 リボンを結ぶ夫人 東宝映画東京 1940.04.24 そよ風父と共に 東宝映画京都 1940.10.30 姉妹の約束 東宝映画東京 1941.06.10 歌へば天国 東宝映画東京 1942.10.15 翼の凱歌 東宝映画 1943.10.07 熱風 東宝映画 1947.07.22 戦争と平和 東宝 1949.07.04 こんな女が誰にした 東横 1950.02.26 ペン偽らず 暴力の街 ペン偽らず共同製作委員会 1952.03.14 箱根風雲録 新星映画=前進座 1952.12.15 真空地帯 新星映画 1954.02.03 日の果て 八木プロ=青年俳優クラブ 1954.06.24 太陽のない街 新星映画 1955.01.22 愛すればこそ 第三話 愛すればこそ 独立映画 1955.11.15 浮草日記 山本プロ=俳優座 1956.03.22 雪崩 東映東京 1956.12.19 台風騒動記 まどかグループ=山本プロ 1957.06.29 生きている人形 山本プロ=文楽三和会 ... 監修 1958.09.23 赤い陣羽織 歌舞伎座 1959.02.11 荷車の歌 全国農村映画協会 1959.10.18 人間の壁 山本プロ 1960.11.08 武器なき斗い 大東映画 1961.02.08 松川事件 松川事件劇映画製作委員会 1962.10.07 乳房を抱く娘たち 全農映 1962.12.01 忍びの者 大映京都 1963.05.03 赤い水 大映東京 1963.08.10 続・忍びの者 大映京都 1964.04.04 傷だらけの山河 大映東京 1965.05.01 にっぽん泥棒物語 東映東京 1965.05.15 証人の椅子 山本プロ 1965.09.04 スパイ 山本プロ 1966.03.26 氷点 大映東京 1966.10.15 白い巨塔 大映東京 1967.04.29 にせ刑事 大映東京 1967.08.12 座頭市牢破り 勝プロ=大映(京都撮影所) 1968.01.25 ドレイ工場 「ドレイ工場」製作上映委員会 ... 総監督 1968.06.15 牡丹燈籠 大映京都 1969.10.02 ベトナム 「ベトナム」製作実行委員会 1969.11.15 天狗党 大映京都 1970.08.14 戦争と人間 第一部 運命の序曲 日活 1971.06.12 戦争と人間 第二部 愛と悲しみの山河 日活 1973.08.11 戦争と人間 第三部 完結篇 日活 1974.01.26 華麗なる一族 芸苑社 1975.09.06 金環蝕 大映映画 1976.08.14 不毛地帯 芸苑社 1976.11.13 天保水滸伝 大原幽学 農協映画製作委員会企画=農村映画協会=大... 1977.04.09 トンニャット・ベトナム 日活労働組合=日本電波ニュース社=日活 ... 総監督 1978.09.23 皇帝のいない八月 松竹 1979.06.09 あゝ野麦峠 新日本映画 1981.03.28 アッシイたちの街 大映映像 1982.02.16 あゝ野麦峠 新緑篇 東宝映画