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Channel: 指田文夫の「さすらい日乗」
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「そして、誰もいなくなった 1960年代後半以降の黒澤明」

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以前、大映の監督だった田中徳三が言っていた。

黒澤明が『羅生門』を大映京都で撮ったとき、撮影が間に合わなくて、アフ・レコを助監督の加藤泰ではなくて、俳優の志村喬に任せたことがあり、ここから加藤と黒澤が喧嘩になったと言っていた。

このことは、二つのことを意味しいていた。

一つは、大映という外部の撮影所の性もあったが、黒澤といえども定められた期間内で制作を進行させていたことである。

もう一つは、志村喬を大変に信頼していたことだ。

                  

だが、この二つは、1960年代の東宝では、次第になくなっていたようだ。

映画『隠し砦の三悪人』では、天気の性もあったが、予定の期間に映画はできず、製作の藤本真澄は、以後黒澤映画はまっぴらごめんになってしまう。

菊島隆三が脚本と制作を担当した『用心棒』と『椿三十郎』は、大ヒットし、次の『天国と地獄』は、黒澤にしては、意外にもリアリティのある作品になった。

それは、彼の子の久雄と和子が大きくなり、当時はトニー谷の息子の誘拐事件など、有名人の子供の誘拐事件があり、黒澤も、自分の子供のことを心配した。

だから、『天国と地獄』は、誘拐犯への怒りが作品へのリアリティを与えた。

だが、次の『赤ひげ』では、なんと製作期間が1年もかかってしまう。

結構立派な作品だが、特に大きなアクションシーンもないのに、撮影に1年間は異常である。

その間、他作品との掛け持ちを黒澤は許さないのだから、たまったものではない。

三船敏郎は、自社でテレビ映画を作っていたので、大変だったようだ。以後、三船は黒澤映画に出なくなる。

加山雄三は、黙って出たようだが、バレて黒澤に怒られたようだ。

そして、この『赤ひげ』以後、多くのスタッフ、キャストは黒澤の周囲からいなくなってしまう。

その結果、そして誰もいなくなった、になる。

こうしたとき、1964年の東京オリンピックの映画の話も来たが、予算でダメになる。

そんなときに来たのが、アメリカの準メジャーのアブコ・エンバシーから『暴走機関車』だった。これはアメリカで起きた実話に基づき、暴走する機関車をなんとかして止めた運転手の話だった。

このとき、米国との合作映画だったとのことで、黒澤は当時アメリカにいた、監督青柳信雄の息子の青柳哲郎を急きょ帰国させて、製作を担当させる。だが、これは予算と制作条件でダメになる。

その後、映画『史上最大の作戦』を当てた20世紀フォックスから、真珠湾攻撃と第二次世界大戦のはじまりを描く企画が来る。『トラ・トラ・トラ』である。

1966年の夏には日米合同の脚本もできて、12月に撮影に入る。

ところが、東宝は、もう『赤ひげ』で凝りているので、当時一番スタジオレンタル料が安いと言われた東映京都撮影所で撮影することになった。

このとき、日本側は、この映画は、日米合作だと思っていたが、本当はホックスの制作で、黒澤プロは、日本側部分の下請けにすぎなかった。

そこの契約では、このシナリオに基づき、何日間撮影して、何フィートのネガをフォックスに納入することになっていた。

この辺の契約の詳細は、青柳だけが知っていた、黒澤は分かっていなかったようだ。

また、この撮影時には、黒澤は玄人の俳優は使わず、元海軍の将校の経験のある素人を集め、オーディションで配役した。私の知人のコンピューター会社の社長もキャステングされていたとのことだ。

こんな状態で、撮影が順調に進行するわけもない。

また、黒澤以外の助監督やスタッフは、主に独立プロの連中で固めたので、いつもの黒澤組のやり方は通用しなかった。

助監督の衣装の準備が不備だったので、黒澤は怒り、チーフ助監督に大沢豊に、責任者のセカンドを殴れと言った。

すると、大沢は「できません」と拒否したので、黒澤は「助監督に反抗されてしまった」と泣いたそうだ。

東宝では、こんなことはなかったのだが、製作が進行しないので、ついに20世紀フォックスから監督首を宣告されてしまう。

そして、以後、黒澤の周辺には、自分の家族等しかいなくなるのだ。

その結果、黒澤の作品は、貧しいものになってしまったのだと思う。

 

 

 

 

 


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