日本映画監督協会による「監督に聞く」シリーズの1本、聞き手はマキノの助監督も務めたことのある澤井信一郎で、その映像化の監督は、奥中惇夫。このお二人も亡くなられているのだが。
私は、マキノが苦手で、見ていて面白いのだが、長門裕之・津川雅彦・南田洋子らマキノ一族が出てくるのと、庶民、民衆はいつも正しいとされることで、民青嫌いの私としては、困るのだ。
マキノのような「生きている映画史」の語りはすごく、まあ嘘はないだろうが、自分たちに都合の悪いことは言っていないようにもみえる。
京都一商のとき、ラクビー部が優勝したため、父の牧野省三に、中学を中退させられてしまい、映画作りを手伝わされることになる。脚本からカメラ、現像までやらされることで、学ぶことになる。
最初の監督作品は、童謡を基にした『青い目の人形』で、相当に評価されたようだ。
その後、父の死とマキノ映画社の破産、苦闘の中で次々と映画を作るが、すべて無声、サイレントの時代のこと。
照明も、アーク灯によるものから通常の白熱電球のライトによるものへの移行にも立ち会っているのだから。アーク灯は、撮影時のみならず、映画館での上映の際にも使用されたもので、長く劇場でのピンスポットの使用にも使われたと聞いたことがある。なかなか強い光源が出来なかったためだろう。
そして、トーキー、そこではレコードの使用によるバイタフォンというもので、レコードさせてに吹き込まれた音と映像を同期させて上映するもの。
フィルムの映像の脇にモジュレーションという音を白黒の濃淡によって音に変換する方式に移行する。マキノも、実際は映音トーキーという会社に関係していたのだが、それは触れられず。
そして、『次郎長三国志』では、4億円の配収をあげて、小林一三に感謝されて東宝では争議後、初めてボーナスが出たそうだ。この時の助監督は、岡本喜八である。ここでは、黒澤明の『七人の侍』の撮影が長引いたので、ブタ松役の加東大介を「殺して」黒澤組に渡したが、これは双方のプロデューサーが、本木壮二郎だったからできたことだろう。
「尊敬」する監督としては、中学の後輩でもある山中貞雄の名を挙げている。
付け加えれば、マキノが徴兵に一切かかわならかったのは、彼が小柄だったからで、日本軍では、153センチ以下は徴兵の非対象で、理由はサイズの軍服がなかったとのこと。
1988年10月27日 自宅で