去年、2022年は、石原慎太郎と安倍晋三が亡くなった年だったが、この二人には共通するところがある。以前、私は、石原慎太郎原作の映画について、次のように書いた。
午前中、彼の原作『挑戦』を須川栄三が監督した、三橋達也、司葉子主演の『愛と炎と』を見た。出光興産の社長出光佐三をモデルにした小説で、彼の下でイランから石油輸入を実現させた男のドラマ。ここで描かれているのは、米占領軍に抗して、アラブから石油を輸入し、日本の民族石油産業を奮い立たせた男たちの美しい姿である。これを見ると、石原慎太郎は、三橋達也が演じる、石原より少し年長の戦中派へ、ある種の憧れを持っているように見える。石原慎太郎は、太平洋戦争に行き遅れたことが、最大の悔恨のようにさえ見えてくるのだ。彼が今回も口にした、最後のご奉公等のセリフの古臭さは、戦時中の日本人のものであるが、それに強い憧れを未だに持っているように思える。その意味では、慎太郎は、やはり「「遅れてきた青年」なのだろうか。今では、「怒れる高齢者」であり、田中眞紀子には、「暴走老人」と言われてしまったようだが。三橋達也と恋仲になってしまう、出光佐三役の森雅之の娘の司葉子は、後に映像作家となる出光真子であり、彼女が連れている文化人風の戸浦六宏が演じた男は、美術評論家の東野芳明がモデルだと思う。 日本映画専門チャンネル
安倍晋三が、彼の祖父岸信介の「日本の戦前的な価値」に強い憧れをもっていたことは、よく知られているだろが、石原慎太郎も同様だったのだ。
特に、それは年をとるほどに強くなっていき、晩年はことあるごとに軍隊式の敬礼をしていた。
この戦争に強い「郷愁」を持っていた男二人がいなくなったことは、どういう意味を持っているのだろうか、よく考える必要がある。