大久保英太郎さんは、横浜市会史上で、初めての社会党の議長であり、4年間の任期も務めた方である。
私は、最後の半年を議長秘書として仕えたが、大変に勉強になった。
私は、大久保さんの生まれは知らない。ただ、もともとは北海道の道東の電報局にいたそうで、市会でのあだ名は「デンポー」だった。
どのようにして横浜の市会議員になったのかも知らないが、当時は保土ヶ谷区の星川に自宅があった。
ただ、先生は、「俺は分区のとき、旭区に5,000票おいてきたので、最初は大変だった」と言っていたので、もともと星川に住んでいたようではなかったらしい。
ともかく、全電通系労組で議員になったわけで、同じ旧郵政系の全逓労組とは仲が良く、集会ではいつも国会議員の大出峻らと一緒だった。
大出も、バクダン男で有名で、息子も1回だけ民主党で議員に当選したはずだが、次で落選後に辞めている。文学座にまったく同姓同名の大出峻がいたが、関係はないようだ。また、彼は東映の女優だった工藤明子と結婚している。
大久保さんは、非常に背が低かったが、例の市会議員野球団では、捕手をやっていて、ここで自民党のボスの鶴見区で野球団監督の横山健一さんと昵懇になったのだ。
それが、議長就任につながったのだから、野球もバカにできない。
さらに、大久保先生が行政視察で他都市にいっている留守に、先生の奥さんが交通事故で亡くなった。
その後、横山健一さんが、後妻を世話したのだから誠に縁は異なものである。
大久保さんには、先妻との間に二人の息子がいて、長男は横浜市にいて、技術職で大変に大人しい真面目な方だったそうだ。次男の方は、高卒後、いろいろあったようだが、横浜スタジアムに入ったはずだ。
当時、横浜市の外郭団体には議員の関係者が沢山いた。
中には、横浜市役所の職員もいて、経済局で幹部職員を務めた成田憲一さんも、市交通労組出身で、市会副議長も務めた成田孝治さんの息子である。
大久保さんは、高等教育を受けていないが、大変に頭がよく、回転の速い人だった。
ともかく、演説のうまさは第一で、地元の弔事などでは、参列者を泣かしてしまうことも多々あったそうだ。
1979年の春、選挙の直前のとき、磯子区の元議員の関寅吉さんの告別氏式が屛風が浦小で行われた。
もちろん、私が弔事を書き、一応大久保さんは、それを読んでくれた。
だが、それを読み終わったとき、大久保さんは、こう言った。
「セキトラさん、私は、こんな通り一片の弔事なんか読みたくなかった・・・」
として、大久保節が始まった。
関寅吉さんは、関貞彦さんの父親、今の関勝則さんの祖父だが、私が市会に入った時は、もう貞彦さんの時代なので、なにも知らないので、履歴を参照して書いたのだ。
参ったなあと思うしかなかった。
1978年春、飛鳥田市長が、社会党の委員長になったために、横浜市長選挙が行われたとき、社会党は、独自候補を出せず、民社党、自民党が引き出した細郷道一さんを、最後は各党相乗りで推薦して、細郷市長を誕生させた。
その後、私が秘書を務めていたときも、大久保さんは、非常に残念がっていた。
それは、この選挙のとき、「あっちゃん(飛鳥田さん)が、私を指名してくれれば勝った。それを、今度は国会で民社や公明党と仲良くしなければいけないので、細郷さんを支持した。これは間違えだった」
これには、実は伏線があり、例の大久保先生の再婚のとき、飛鳥田市長が、
「私の次は、大久保さんだ」と言ったそうなのだ。
ただのお世辞だったのだが、大久保さんはずっと信じていたのだから、飛鳥田さんも罪作りだ。
だから、1982年の細郷さんの二期目の市長選挙のとき、大久保さんは独自に市長選挙に出た。
念願の念願の横浜市長選挙出馬だが、もちろん、落ちた。
この飛鳥田さんの「ヨイショ」だが、大久保さんのみならず、奥さんも信じていたそうで、
「市長になるからと結婚したのに・・・」と言われていたそうだ。
まことに罪作りな飛鳥田さんである。