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Channel: 指田文夫の「さすらい日乗」
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鈴木喜一さんと相川藤兵衛さん 3

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相川さんはに行く前に、もう一つだけ鈴木喜一さんのことについて追加する。

それは横浜駅のホテル・リッチのことで、今は横浜キャメロット・ホテルと名が変わっている。

横浜の地下街の一番端にあるホテルだが、その名の通りリッカー・ミシンが作ったホテルだった。

そこは木材の市場があり、一時は浦舟町の横浜市大病院の移転候補地ともなったところだった。

横浜の大岡川両岸には、材木関係の会社が多くあったが、これは材木は港で船から落とし、筏で輸送したからで、川の周辺に関連企業が立地したのであり、小此木も大岡川沿いに本社がある。小此木家は、歌蔵、彦三郎、八郎と三代続く横浜の世襲議員一家である。

そこにリッカー・ミシンがホテルを建てることになり、頼ったのが元代理店だった鈴木先生だった。

年柄年中、彼らは議長室に来て、建築局の職員と交渉していたが、勿論鈴木先生を通してであった。

このように鈴木先生は、意外にも人脈が広く、地元の産廃業者の社長から国会議員に至るまで多彩だった。なかに元外務大臣の藤山愛一郎さんがいたが、藤山さんは、神奈川県を選挙区にしていたのだ。

ある日突然、「赤坂の藤山先生のところに、感謝状を持って行く、港湾局長に言ってあるから」と宣言された。

それは、横浜港のコンテナ化に対して、藤山さんが国レベルで尽力されたという意味の感謝状で、港湾局に行くと、すぐに感謝状をくれて、そのまま赤坂のホテルニュージャパンに行った。

あの火事で燃えたホテルニュージャパンである。

中に入り、奥のエレベーターで最上階に上がり、そこから長い廊下を行くと突き当りに藤山事務所があった。中には、中国関係の本や資料が多数あって、さすが藤山さんだと思ったものだ。

今日、日中友好と言うと、田中角栄の名だけが言われるが、藤山愛一郎さんも「井戸を掘った先駆者」なのである。

鈴木さんで、もう一つ、横浜に横浜アーチストという広告代理店があり、そこがある日、浪花節のまったく名も知らい連中をアトラクションに付けた演説会のチラシを持ってきた。

「これはなんですか」と鈴木先生に聞くと、

「横浜アーチストは、元は神奈川新聞の営業部の人で、浪曲を売りに新聞の販促をやっていた男なんだよ」と教えてくれた。まるで巨人の券で新聞の販促をやっていた読売新聞ではないかと思った。

 

鈴木さんが約束どおりの2年で辞めて、相川藤兵衛さんに移ったときは、きわめて平和的だったと思う。

ただ、相川さんが議長になられたとき、「いろいろと平気か」と言う人はいた。

理由の一つは高齢で、なった時すでに70歳を越えていた。

もう一つは、耳がご不自由なことで、口の悪い人は「つんぼの藤兵衛さん」と言っていた。これはまったく問題がなかった。

きちんと私が秘書を務めたことで、もう一つは議会の進行、言論はすべて文字、原稿を基に行われるからで、目で見て言えれば問題はなかったからだ。

相川さんは、鈴木さんが足元にも及ばないような、本当に良い人で、言ってみれば本物の「大人物」だった。

吉本隆明が、親鸞に触れたところで、「知にとっての最後の課題は、知の解体だ」と書いていたと思うが、まさに余計なしらない人だった。私は、年取ったら、ああなりたいと思ったものだ。

それで、私は、相川藤兵衛さん夫妻に、結婚のお仲人になってもらったのだ。

その後、離婚に至ったが、そのときはご夫妻はもう亡くなれていた。

たぶん神奈川、横浜、金沢で一番の大地主は、相川藤兵衛さんのご本家の相川文五郎さんだが、藤兵衛さんの資産も相当なものだった。

ある日、突然相川さんは、家から厚さ2センチくらいの書類の束を持って現れた。

「それはなんですか」と聞くと

「地所の地代の請求書なんだよ、払ってくれない分の・・・」

やはり、大した地主なんだなあと思った。

「横横道路に協力して随分売ったんだけどねえ・・・」

相川さんは、元は味噌と醤油を製造・販売していた会社であり、明治、大正時代は、原材料の豆、塩等を船で侍従川でもってきて、味噌と醤油を作っただよと言っておられた。

関東大震災前は、六浦の侍従川は幅が広くて、川を物流に使ったのだが、震災で土地が隆起して駄目になったのだとのこと。

また、相川さんは、六浦信用組合の役員をやっていたが、

「この辺は横浜ではなく、横須賀の経済圏で、専売公社の営業域では、横須賀だったんだよ」と教えてくれた。

軍と言うものは、物を消費する団体なので、戦中まで帝国海軍の横須賀の経済圏は広く、六浦にまで及んでいたのだ。

相川先生が、議長を辞めた頃、六浦の「ヤグラ遺跡」のマンション問題が起こり、地元の議員の相川さんは、地元の集会に引き出されて疲労し、亡くなれてしまった。

 

                      

後は、長男の光正さんが継いだ。光正さんは、横浜信用金庫の支店長をしていたのだが、父の急死で後を継がれ、最後は議長にまでなられた。

彼の弟には、相川翼志さんと言う方もいて、佐藤栄作の息子の議員佐藤信二さんのところにいたのだが、あまり評判のい方ではなかった。

ある時、議長の松村さんに、「相川藤兵衛さんの後は、翼志さんですかね」と聞いたことがある。

すると即座に「あんな奴だめだよ」と言った。

松村さんも、人を見る目は厳しいのだなと思ったものだ。

 

 

 

 

 

 

 

 


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