1975年の春、川口正英さんの議長が終わった頃、正確な数字は憶えていないが、横浜市会の党派の順は、自民、社会、公明、民社で、共産党だったと思う。
なので、議長は自民党の序列からみて、今度は西区の鈴木喜一さんだろうとの噂だった。
だが、驚くことに議長は、社会党の大久保英太郎さんになった。
その理由は、自民党団長の横山健一さんが、
「われわれは今後は、飛鳥田市長に対して完全野党になるから」と宣言して議長を放棄したので、第二党の社会党の大久保英太郎さんが議長になったのだ。
もちろん、初めての社会党議員の議長就任である。
だが、これには裏があり、「完全野党云々」は表向きの理由にすぎず、本当は横山健一さんが鈴木喜一さんを嫌いで、「鈴木喜一を議長にしたくなかった」からなのだ。
なぜ、横山さんが、鈴木さんが嫌いだったのか、その理由は私には分からない。
ただ、二人の体質が違ったことが根本の原因だと私は推測している。
前に鈴木さんは、剣道やボクシングに関係していたと書いたように「武闘派」だった。
逆に横山健一さんは、明治大学時代には詩集も出したという文学青年だったらしい。
そして、横山さんが、議長に社会党の大久保さんを指名したかと言えば、それは野球繋がりだった。
当時、日本中は野球ブームで、地域にも草野球のチームがあり、企業にも会社、組合双方に野球のチームがあった。
そして、横浜市会議員団にも野球チームがあり、多くの議員が参加していて監督が横山さん、キャプテンが大久保さんで、お二人は野球を通じた強いつながりがあった。
だから、大久保さんの奥さんが1970年代に交通事故で亡くなられたとき、後妻さんを世話したのは横山さんと言う具合なのだ。
人と人のつながりは、党派は関係なく、人間的な好悪なのである。
こうして社会党の議長が誕生したが、なんと大久保先生は、4年も議長を務めたのであり、その最後の半年間は、私が横浜市会での最初の公的秘書をやることになったのだ。
つまり、鈴木喜一さんは、4年も待たされてやっと議長になったので、70歳に近かったと思う。
鈴木先生は、非常に良い方で、私のいうとおりにすべてやってくれた。
怒られたのは2年間で1回だけ、なにかの行事を先生が忘れていて、私が指摘したときで、
「そんなこといちいち全部俺が憶えてられるか!」と怒鳴られた。
まさにその通りで、日程を管理するのは秘書の第一の仕事なのだから当然のことだった。
先生は、酒もタバコも、もちろん女にも潔癖で、その点でも、なにかにつけて鷹揚だった横山さんとは肌が合わなかったのだと思う。
その第一は、横浜市での飛鳥田市長と横浜自民党の「蜜月時代」を作り出していた横山健一さんの政治的姿勢が鈴木先生には許せなかったのだと思うのだ。
先生には、男の子が2人、女の子が1人いて、長男は慶応大学を出て、横浜高島屋の課長だった。
次男を後継者にするつもりだったが、この方が30代で、急死されてしまったのだ。
横浜市自民党本部では、西区は鈴木喜一さんは、議長もやったので引退と決めていた。
それが次の候補者が急死したので困った。そこで急きょ決めたのが、市連会長の小此木彦三郎の秘書だった元首相の菅義偉氏だった。
このとき、鈴木喜一先生の周囲では、「喜一出ろ」という声が上がった。
しかし、横浜の親分の小此木さんに逆らうことはできない。そこで、鈴木先生は、神奈川県の西区の県議会に出ることにした。
このときの理屈というのが、大変に面白いもので、
「西区の市会議員候補を決めたのは西区の県議会銀の斎藤達也でけしからん。この男を落としてやる」として県議会に出たのだ。
本当は、決めたのは小此木さんだが、大親分に逆らうことはできないので、斎藤さんにしたのだ。
この辺の理屈は、日本の保守の論理として大変に興味深いと思う。
また、斎藤さんは、横浜の元大物議員だった方の愛人との子だとの噂もあり、その辺も女性関係に潔癖だった鈴木先生と斎藤さんは合わなかったのだと思う。
そして、なんと鈴木喜一先生は、県議会議員選挙で当選されたのだ。
日本人の同情票というものだろう。4年間、静かに県議会で過ごされたようだ。
だが、次の回も出られて当然にも落選されて、比較的すぐに亡くなられた。
なんというか、森の石松のような、竹を割ったような性格のような人だったと私は思うのだ。