Quantcast
Channel: 指田文夫の「さすらい日乗」
Viewing all articles
Browse latest Browse all 3529

鈴木喜一さんと相川藤兵衛さん

$
0
0

松村議長のことを書いたので、その前に公的秘書として仕えた二人の自民党の議長について述べる。

お二人は、かなり対照的な出自だったが、自民党なので非常に共通したところもあった。

まず、区だが、鈴木先生は、横浜市西区で、住所は久保町だった。

対して、相川さんは、金沢区の六浦で、大地主相川家の当主だった。

相川さんは、大地主の当主と書いたが、鈴木先生のお家は、どういう人か私は知らない。先生から聞いたこともない。

ただ、そう裕福ではなかったようで、給料の良い横浜市交通局の市電の運転手になったのだから。

 

                     

こう書くと意外に思われるかもしれにが、横浜の市電の運転手の給料は非常によく、またいろいろと特別手当のようなものもあったので、「非常に良かった」のだそうだ。

1960年代のモータリゼーションの時代とは違い、横浜のような大都市でも、市内の交通の中心は路面電車だったので、利用者は多く、通勤・通学は路面電車だつたので、横浜市の交通事業は「黒字」で、市の一般会計に剰余分を入れていたくらいなのだ。

1970年代以降の大幅赤字とは違うのである。

その証拠に、交通局は、自社ビルを持っていたくらいなのである。

そのような交通局の職員としての「高給与」を貯めて、鈴木先生は、親に家を買ってあげ、自分ではリッカーミシンの販売代理店の権利を手に入れる。

ミシンの代理店の権利と言うのも面白い発想で、つい最近まで、町の街頭や職場で、ミシンの販売の説明は良く行われていたもので、「嫁入り道具」の必需品だった。

先生は、左目がつぶれていて、ほとんど見えないようだったが、剣道をやっていて刺されたのだと言っていた。また、横浜の名門ボクシングジムの河合ジムの後援会長をやっていた。こうした「格闘技」との関係は、先生が若いころ、横浜の院外団の一員だったからだと私は思う。

院外団とは、今では死語だが、政治学で言えばプレッシャー・グループで、1950年代まで横浜市でも存在したようだ。院外団出の有名人と言えば、山梨の金丸信である。彼は、柔道の有段者で、1960年の日米安保国会の騒動では、国会で社会党議員らを投げ飛ばし、清瀬一郎議長の議長席への座りを後ろから押す映像はニュースフィルムに残っている。

さて、鈴木喜一先生が横浜市会議員に当選されたのは、戦時中のことで、当時西区の定数は6人だったそうだ。

私が、横浜市会事務局に入った時の議長は、神奈川区の町田善太郎さんと言う方で、関内で共栄社という電気工事会社の社長で大変に貫禄のある立派な方だった。

この人の次は、瀬谷区の大地主、お大尽の川口正英さんで、この人の次は鈴木喜一さんという噂だった。

だが、それは違ったのだが、それは次に。

 

 

 


Viewing all articles
Browse latest Browse all 3529

Trending Articles