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Channel: 指田文夫の「さすらい日乗」
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西区は、三菱重工の城下町だった

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月曜日の夕方は、ランドマークタワー内の横浜市大エクステンションセンターで行われた「フォトグラメトリーが近現代史の視点を変える」に行き、杉島和三郎さんのお話を聞くが、非常に興味深かった。

中区元町生まれで、95歳の杉島さんは、早稲田大学理工学部を出られて、昭和27年に、横浜の三菱重工造船所に勤務される。当時は、レッドパージの直後で縁故採用が多く、同期は7人だったとのこと。三菱重工と書いたが、当時は財閥解体で、重工は別の名称だったが。

当時、横浜造船所には約1万人の職員がいて、勤務時間は朝8時から、夕方4時までだった。

杉島さんは、重機、実際はボイラー等の設計、製作に当たられたそうだが、他に船体部、また全体を統括する総務部などがあったとのこと。

会社の正門は、高島町に近いところにあり、そこでタイムレコーダーを押して事務所に行く。

そこに本部があり、そこは緑町だったので、ずっと三菱は、西区緑町と言われていた。

昼は、大きな食堂があったが、他にセンターグリル、角平などからの弁当の仕出しもあったそうだ。

こうした工場での食堂は巨大なものだったが、それを見られる映画がある。

 

                                                 

酒井和歌子と黒沢年夫の1968年の映画『めぐりあい』で、川崎の自動車工場に勤務する黒沢が巨大な食堂で昼飯を取るシーンがあり、この映画の全体は日産の工場だったようだが、そこだけはいすゞの工場の食堂の映像だったようだ。

夜は、野毛の武蔵屋などに杉島さんも行ったようだが、全体に野毛ではなく岩亀横丁、平沼などが多かったとのとのこと。杉島さんの言では、

「野毛は少し格上だった」にみえたとのこと。

その他、御所山、戸部等に社が持っている寮があり、社員は安価に利用できた他、営業用にお客さんを接待するなどにも利用されていたそうだ。

市内各地に、社員寮や社宅、団地があったが、多くは相鉄線沿線だった。そして、持ち家ができるような制度も色々と制度があったとのことだった。

当時は、内外から造船の需要があり、大型船の造船が盛んだったが、1970年代以降、造船は不況になり、さまざまな発電機などの分野に出てゆくことになり、杉島さんも、環境分野の担当となり、シンガポールやキューバでの仕事もされたとのこと。

質問で、私は、西区の議員鈴木喜一議長の公的秘書をした。鈴木先生曰く、最初西区の議員になった時は定数6人だったが、今は半分の3人で大変なこと。先生は、久保町に住んでいられたが、近くの藤棚商店街は、当時もすでに衰退しつつある町だった。

だが、元日活の監督沢田幸弘さんから聞いた話では、彼が生まれた頃の藤棚は非常に賑わっていて、映画館が2館もあったとのこと。

そのように藤棚、久保町などまでが、三菱に勤務する人が大変に多く住んでいたのだ。

1980年代、西区市会議員は、自民と社会で、もう一人民社の議員がいて、初めは鈴木卓郎さんと言う人だったが、この人が倒れて引退した後は、金子勝雄さんという三菱労組の人になった。

そのくらい西区は、三菱に関係する人が多かったのである。

いろいろと実勢を知り、大変参考になった一夜だった。


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