1966年春のことだが、早稲田大学に「ベルリンの壁」とよばれるものがあった。
場所は、正門から入って突き当り、21号館、共通講堂とも言われ、特定の学部ではなく、文学部以外のいろんな学部の授業が行われる建物で、そこと屋上から外部の道路に出るところにコンクリートの壁が作られたのだ。
それには、原因があり、1965年12月から、早稲田では第二学生会館の使用法と学費の値上げで「学費・学館闘争」が始まっていて、12月中旬には全学封鎖、ストライキになった。
この全学ストで、授業はなくなり、ほとんどの授業がレポート提出に代わった。
そのために政経学部7年生だった林裕通さんも、無事8年生に進級されたのだそうだ。
在学生は、それでよいが、新入生の受験テストがあるので、大学は2月初旬に機動隊を導入して封鎖を解除し、203人の学生を逮捕し、逆にロックアウトにした。
このとき、わが劇研の部員も3人が逮捕されたのだそうだ。だが、この3人は、夜中に麻雀をしていて電車がなくなったので、本部に泊まって逮捕されたとのこと。まあ、そんなものだが、もちろん意気は上がっていたそうだ。
そして、無事入学試験は行われ、私も受けて教育学部になんとか合格した。
前年の12月まで、なにもしていなかったのだから、良く受かったものだと思う。
さて、このロックアウトの余波のごときもので、21号館の「ベルリンの壁」は、その後も数か月残っていた。
だが、柔らかいコンクリートだったので、少しづつ穴が空かれ、ついにはほとんどなくなり、大学側が撤去したのは、6月頃だったと記憶している。
実におかしなものだった。