衛星劇場で、『新・監督は語る』があり、故石井隆さんだった。
この人には、1966年の秋に一度だけ会ったことがある。
当時、私は映画を見て語るだけの早稲田大学映画研究会に厭きて、やはり若者は体も動かすべきと考えて劇団演劇研究会に入っていたが、久しぶりに映研の部室にいったのだ。
そこは、今は大きく変わっているはずだ、21号館の裏に「演劇長屋」と言われる、学内の3劇団の部室と2つの稽古場があり、その他中南米研究会、探検部等の部室も、本当に長屋のように連なっていた。まるで、松竹映画の人物が住む長屋のような感じだった。
その稽古場の裏には、細い路地があり、そこを右に行って突き当りを左に曲がると映画研究会の部室、と言っても、普通の仕舞屋があり、板敷きの上に長机が四角に置いてあるのが、映研の部室だった。
行くと、当時3年で部長の曽根益男さんがいて、少し彼と話していると、いやに爺くさい男が入ってきた。
それが、石井隆さんで、彼曰く「早稲田のシナリオ研究会にいたのだが、完全に革マルに乗っとられたので、嫌になって映研に入れてくれ」と来たのだった。
大学のクラブを乗っ取るなど、異常なことで、実はシナリオ研究会は、文学部所属のクラブで、当時早稲田のクラブ・サークルは、大体が反革マルだった。
そして、彼らは、第一学生会館を拠点として、大学と革マルに対立していたのだ。
革マルは、当時早稲田が最大の拠点で、文学部と商学部の自治会を押さえていたが、他の学部の自治会は、法学部が民青である以外は、すべて反革マルの、社青同解放派か中核派が押さえていて、全体の動員人数でも、革マルと反革マルは、問題にならないくらいの格差があった。
そこで、シナリオ研究会を乗っ取るなどしたと思うが、実にひどいことと私も、曽根さんも憤慨した。
そして、部室から高田馬場まで、3人で歩いて行ったが、そこで石井さんは、ピンク映画の現場のことを話された。
主にカメラを担当していて、その現場が過酷なこと、だが面白そうに話してくれた。
石井さんは、1946年生まれで、私とは2歳しか違わないのだが、そうした町場の現場で鍛えられているだけあって、私には大変に世慣れた、相当に年上の方にみえた。
その後、石井さんは、私と同様に映研に物足りなくて出てしまった金子裕君と組んで、週刊誌のルポのような仕事、アルバイトをしたのち、劇画雑誌の書き手になり、そこから映画のシナリオ、さらに監督になられたようだ。
この番組で初めて知ったが、石井さんは、、19本の映画を作っているそうだ。
フリーの監督として多い方だと思う。
この数年間は、闘病だったとのことで、やはり映画の脚本の執筆、さらに実際に監督をすることは身を削ることなのだなあとあらためて思った。
ご冥福をお祈りする。