1991年8月に、最初のウォーマッド横浜91が開催されるとき、途中でチケットの売れ行きが良くなかったので、制作の田村光男のアイディアで、都はるみさんが出演することになった。
言うまでもなく中村とうようさんも大賛成だった。
だが、この時、横浜市都市計画局の担当課長のF氏が、当時はパシフィコ横浜にいて、このフェステイバルの担当だった鯉渕信也君に言った言葉である。
横浜市の役人の文化的レベルなんて、当時は、こんなものだったのだ。
音楽で一番良いのはクラシックで、ポピュラーや演歌は、その下という考えだったのだ。
もちろん、拙著『ウォーマッド横浜・歴史から消えたビッグ・フェステイバル』にきちんと書いてあるのは、もちろんである。