1989年の2月頃、私とプロデューサーの田村光男が、「パシフィコ横浜のオープニングイベントとして、ウォーマッドをやりたいので、ご参加いただきたい」と言いに『ミュージック・マガジン』の社長室に会いに行ったとき、
意外にも、「僕は役所とやるのは気が進まないんだ」といきなり言った。
それは、1986年の武蔵野文化会館の開館イベントのことで、知人の小島美子先生のご依頼で、ポピュラー音楽を担当され、ザイール(現コンゴ民主共和国)のパパ・ウエンバを招聘することになった。
ところが、「そんなアフリカの誰も知らない奴を呼んで平気なのか」と武蔵野市の企画委員が、この社長室まで来ていろいろと詰問された。
「あんまり、うるさいので、赤字になったら俺が責任を取るよと言ってやったよ」
横浜では、市役所が責任をもって実施するとのことで、ご了解いただいたのだった。
そして、ウォーマッド横浜ができたのだった。
そのパパ・ウエンバもすでに2016年に亡くなった。