1991年のウォーマッド横浜の前年、神奈川県が、突然「かながわ国際交流フェステイバル」をやると言ってきた。
それも、各都市の国際交流担当課を集めての会議だった。
おそらく、1989年に横浜市が博覧会をやったので、これに対抗した策だったと思え、実際に三浦海岸で、「サーフ90」というイベントをやったのだが、こっちは陸場のイベントだった。
要は、各都市が持っている友好・姉妹都市からイベント団を招聘させてイベントにする、とういうケチな考えだった。
でも、開催費は、数千万円は出したはずで、金のない県としては、清水の舞台から飛び降りるような事業だったと思う。
横浜市としては、姉妹都市のルーマニアのコンスタンツアとカナダのバンクーバーから団を招聘して参加させた。
その中で、音楽など分かっているのは、私だけだったので、司会は関谷元子さんを指名した。
その間で、どのような経緯かは私は知らないのだが、インドネシアのデティ・クルニアが参加することになった。
インドネシアは、神奈川県の都市と何の関係もないのだが、県は一流の歌手の参加に喜んだ。
この経緯は、たぶん、関谷元子さんから中村とうようさんに話が行き、そこから久保田真琴さん経由で、デティになったのだと思う。
そして、1990年7月30日の午後、本当にデティの一行が、神奈川県民ホールに来た。
すると、中村とうようさんは、デティのところに行って、彼女のスーツケースを自分で引いて、楽屋まで行ったのである。
「とうようさんって、こんなに親切な人だったのか!」と驚いた瞬間だった。
おそらく、藤田正さんが見たら、腰を抜かしたに違いない。
さて、イベントは、横浜市手配のコンスタンツア市の東欧的な舞踏団パンデラシュールと、バンクーバーの明らかにスコットランド風のバグパイプのポリス・バンドは、大変に好評だった。
その他、県手配の中国の当時日本にいた郭峰(グオ・フォン)と韓国女性舞踏芸術団が出た。
このパンフを見ると、ほとんどの原稿を私が書いたことを思い出す。他に、誰も書ける人間がいなかったからである。
そして、最後の1時間は、デティ・クルニアのショーになった。
その後、朝日新聞の公演評に、デティについての中村とうようさんのが出たので、神奈川県は狂喜乱舞した。こんな大物だとはまったく知らなかったからだ。