昨年の関内でやったトークイベントで、小林昭仁君が、さかんにウォーマッド横浜と国連ピースメッセンジャー都市会議との関連を質問された。
私は、即座に否定したが、ピースメッジャー都市会議は、当時横浜市国際室長だった大内さんが、
「我こそは、国際人だ!」と示したかったために招致してやった会議だった。なにしろ、大内さんは、英語はもちろん、ドイツ語、韓国語も堪能という、非常に珍しい土木屋さんだったからだ。
むしろ、ウォーマッド横浜と強く関連したのは、アムネスティ・インターナショナルの日本での世界大会だった。
1987年の秋ごろ、アムネステイの日本事務局から話があり、私も高田馬場にあった事務局に行ったのを憶えている。そして、アムネスティの地球的、全人類的目的に合うイベントして、ウォーマッド横浜は、最適となったのだ。
だから、1988年に東京ドームで行われた「ヒューマンライツ・ナウ・コンサート」には、私も招待されて、妻と彼女の弟夫妻、さらに下川博夫妻の6人で見に行ったのだった。
最初は、日本の宇崎竜童の竜童組で、これはかなり残念なできで、恥ずかしかった。
トレイシー・チャップマン、ユッスー・ンドールが終わって、長い休憩になった。
我々6人は、貴賓室で、軽食を取るなど、最高の一日だったが、この夫婦3組は、すべて離婚しているのは時代というべきだろうか。
終わって戻ると、ブルース・スプリングスティーンで、それまで大人しく席にいた観客が、舞台の下に殺到した。
そのとき、中村とうようは言った、
「みんな、ヒューマンライツなんてどうでも良くて、スプリングスティーを見に来ただけなのか!」
「とうようさんは、嫌いなんですか」
「俺も好きだけどさ・・・」
このとき、さらにバンドチェンジに時間がかかったことにたいしても、
「こいういうときは、アメリカでは歌手やコメディアンが出てきて、繋ぐんだけどね・・・」
「たけしあたりでやればね」というと、
「たけしじゃ無理だよ」と即座に否定された。
中村とうようは、喜劇にも詳しく、あきれたボーイズを再評価したのも、とうようさんが最初で、ミス・ワカナを最高だとしたのも、とうようさんである。
ウォーマッド横浜の2年前のことである。