黒澤明生誕100年とのことで作られた作品。
映画を最初に見たのは、高校3年のとき、渋谷のテアトルハイツで、岡本喜八の『江分利満氏の優雅な生活』と2本立てだったと思う。
ここは、東宝系の名画座で、音と映像が良いので有名だった。渋谷の百軒店で、ここにはテアトルSSというストリップ劇場もあったが、すぐにピンク映画になった。
この『悪い奴ほどよく眠る』を見て、不思議に思ったのは、汚職などの社会的問題に一切意識がないはずの黒澤が、なぜこの汚職をテーマとしたのかだった。
ずっと分からなかったが、黒澤の父親の黒澤勇氏のことを知ってわかったのだ。
黒澤勇氏は、日本体育協会と体操学校の理事だった。だから、黒澤明は、東大井の学校の官舎で生まれ、幼いときは高輪にあった私立の森村学園に行っていた。
ところが、大正3年に体育会と体操学校を首になってしまう。その理由は、2年に開かれた「大正博覧会」への出展で、大赤字があり、経理上の不正があったのではないかとの疑惑で警視庁刑事の取り調べを受けたことだった。これは新聞にも出ているが、結局は不起訴になる。ここでおかしいのは、体育会の名誉総裁だった閑院宮家の家令も警視庁の取り調べを受けていることだ。戦前は、皇族や軍人を団体の長として仰ぐことがあったが、あくまで名誉であり、名のみのことに過ぎない。その宮家の家令が警視庁刑事の取り調べを受けたというのはただ事ではない。推測すれば、宮家の経理上の問題を体育会のイベントの赤字に付け替えたといったことがあったのではないかと私は思うのだ。というのは、黒澤勇氏は、会を首になった後も、実は会からイベントの企画等の業務を受けていて、会とは良好な関係にあったことだ。本当に問題があったのなら、体育会は黒澤勇氏とは関係を断っているはずだからである。だから、勇氏の首は別の理由だったのだろうと思う。
この首のために、黒澤家は急に貧乏になり、黒澤明は、2年の時に私立の森村学園を辞め、文京区の黒田尋常小学校に転校する。要は、家が貧乏になったためである。
そして、戦後黒澤明は、1960年の黒澤プロの第一作として『悪い奴ほどよく眠る』を製作している。社会的問題に関心のない黒澤が汚職を題材としたのは非常に変だが、また異常に力の入った作品になっている。これは妾の子の三船敏郎が、汚職の罪を着せられて自殺した父親の復讐をする話で、これは黒澤の父親の事件ことのように思えるのである。
さらに、黒澤は晩年の『乱』の製作時、「私にはぜひとも作りたい話があるが、それを作ると自分は良いとしても、子や孫にまで類が及ぶかもしれないのでできないのだ」と弁護士の乗杉純氏に言っていたそうだ。これは、閑院宮家との問題を示唆しているのではないかと私は思っている。乗杉氏のネットの記事にきちんと出ているので、ぜひ読んでほしいと思う。
今回のテレビの脚本は、元松竹の吉田剛氏で、彼は2018年に亡くなられいるので、これは彼のものを誰かが再度直したものなのだろうか。
BSフジ