私が経験した一番立派だった葬式は、川口正英議長の母親が亡くなった時のものだった。
川口家は、瀬谷の名家で、幕末から明治期に生糸で富を得た家だった。さらに、明治後半にはそれを不動産に変えていて、中華街や山下町にも土地を持っていた。
家は、相鉄の瀬谷駅から、ご自宅まで、他人の土地を歩かずに行けるとという話しだった。
瀬谷駅から10分くらいの緩やかな谷にあり、背景の北側は少し高くなっていて、冬の北風を防ぐようになっていた。庭には小川がながれていて、紫陽花が諸所に咲いていた。
6月には、紫陽花祭として、近所にも開放していた。
さて、葬式は大変で、市会の庶務課は総出だった。
まず、運転手や守衛が行って雑草を刈って駐車場用地を確保した。
当日は、庶務課は総出で、受付、香典の計算、花輪の記録も役人が全部やったのだ。
記憶ははっきりしないが、香典は200万くらいあったので、会葬者は500人くらい来たのだと思うが、すべて市会の人間が担当して行なって香典も川口家に渡した。
現在で考えれば、とんでもないことになるが。
さて、川口正英氏は、東大農学部を出て県の農業試験場にもいた人で、非常に温厚な方だった。
昔のお金持ちなので、やたらに金品を多く配る人で、私たちも、ある年の年末に、酒粕をもらったことがある。
なんで酒粕かと思ったが、母に渡して焼いて食べたが、特別に美味しいものでもなかった。
また、これは議長になってからだが、市会の職員全員が辞書を貰ったこともある。
ある職員は言った、「もっと勉強しろということでしょうかね」
この川口正英先生の息子の川口正寿氏も議長になられている。
これで、二代に渡って議長になったのは、島村家、相川家と並び三家目であるが、今後はないと私は思う。
いぜれも、港北、金沢、そして瀬谷区と、横浜でも郊外の区である。