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Channel: 指田文夫の「さすらい日乗」
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フジ・ロックが嚆矢ではない

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17日、月曜日の朝日新聞に、スマッシュの日高正博さんのインタビューが載っていて、1997年のフジ・ロック・フェステイバルが、現在の日本の野外ロック・フェステイバルの始まりだと書かれていた。

これは、明かな間違いだ。

1991年には、横浜のみなとみらいで、ウォーマッド横浜91が開催され、同時に富山県南砺市で、スキヤキ・ミィーツ・ザ・ワールドも始められているのだ。

                   

ウォーマッド横浜も、1996年まで行なわれたし、スキヤキ・ミィーツ・ザ・ワールドにいたっては、現在も実施されている。

もちろん、日本でのロック・フェステイバルは、ニッポン放送がやった「箱根アフロディーテ」や福島の郡山のロック愛好者たちがやった「ワン・ステップ・ビヨンド・フェステイバル」もあったが、それらは単発だった。

別に自慢するわけではないが、ウォーマッド横浜が日本で始めたことについては、以下の三つがある。

1 ロックのみならず、ジャズ、民俗音楽などポピュラー音楽の幅広いジャンルの音楽をやったこと

2 野外のみならず、室内のホールでのコンサートやイベントもあったこと

3 そうした複数のプログラムが、同時進行で開催されたので、参加者は自分でライブを選択したこと

 

だが、この最後の複数のプログラムが同時進行で行なわれるのは、大変に不評だった。

アンケートでも、「全部が見られるようにしてほしい」という声があった。

当時、日本ではまだ主催者から提供されたイベントを享受するという受身の「鑑賞」だったのだ。

また、1の幅広いジャンルも問題で、都はるみの出演を決めると、横浜市都市計画局の課長からは、

「演歌歌手を出すなら、横浜市は補助金を出さない!」と言われた。

クラシックのオペラ歌手だったらOKだったのだろう。

当時の横浜市役所の役人の知的レベルは、その程度だったのである。

 

さて、スマッシュの日高さんとは、お会いしたことはないが、ウォーマッド横浜の中で、音楽評論家で、ウォーマッド横浜日本委員会顧問だった中村とうようさんから、そのお名前が出てきたことがあった。

それは、1992年12月頃で、「ウォーマッドのイギリスの連中と手を切って、スマッシュの日高さんに招聘事務をやってもらい、実施は、1991年も実施したステーションの田村光男にやらせればできる」とのご意見だった。

だが、すでに田村光男は、自己資金等でウォーマッド・ジャパンを設立していたこともあり、1992年以降もイギリスのウォーマッド事務局と連携してすることになった。

そして、1997年から日高さんの手で、フジ・ロック・フェステイバルが始められたのである。

おそらくは、若い記者の定塚遼さんのご存じないことだったと思うが。

 

 

 

 

 

 


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