先日、相川光正さんのご逝去について書いたので、やはり横浜市会議長だった鈴木正之さんの死についても書いておく。
鈴木正之さんが亡くなれたのは、去年の10月のことだそうだ。
私は、この方は直接にはあまり知らないが、その父鈴木長之さんは、私が市会事務局に入った時は現役で、市会議員9期目くらいだった。
これは当時全国でも最高の任期数だったそうだが、彼は議長、副議長などの公職に一度も就いたことのない方だった。
その理由は、「あっちについたり、こっちについたりしたためだ」と言われていたが、半分以上は運がなかったというべきだろう。
前にも書いたことがあるが、戦後最初の1947年の市長選挙の時の横浜市長は、社会党の石河京市氏だったが、大変に評判が悪く、すぐに自民党の平沼亮三さんになった。
横浜の名家の出で、スポーツマン、しかもその孫の一人が石坂浩二であるように二枚目だった平沼市長は大変に人気があり、2期務めた。
だが、二期目の最後はかなり老齢化していたようで、それを見込んでその頃には、次期市長込みで、内務官僚で神戸市助役だった田中省三氏を横浜市助役に迎えていて、議会の答弁は、ほとんど田中氏がやっていたのだそうだ。
だが、戦時中の官選市長で、戦後公職追放になった方に半井清氏がいて、彼がどうしても1959年に、「なんとかもう一度横浜市長をやらせてくれ」と言ってきた。
保守陣営の談合の結果、「半井氏に1期やらせて、次は田中氏に譲る」との密約ができた。
だが、「なんとかとなんとかは3日やると辞められない」と言うが、それ以上が市長職である。
そして1963年になると、半井さんは「もう一期やる」と出場を宣言してしまった。
困ったのは、横浜市の自民党であり、総会では大紛糾の結果、「約束を守れ」とのことで、田中省三を横浜市長候補に決めた。
だが、半井さんも出馬し、この時に選挙資金として、新港ふ頭に「一文字埠頭」を埋め立てて作り、関係企業に売却し、その上前を刎ねて自陣の選挙資金にしたのだそうである。
この時、南区鈴木正之さんをはじめ、同区の谷田部巳三郎、保土ヶ谷の中村渉、中区の山本新三郎などの自民党の半分くらいの市会議員が半井さんを支持した。
この頃の横浜市自民党の中心は、港北の島村力さんや鶴見の横山健一さんらで、この二人は、その後の横浜の自民党の中枢になる。
選挙の結果は、半井、田中の保守分裂の間隙をぬって社会党の衆議院議員だった飛鳥田一雄氏が市長に当選してしまった。
そこで、自民党は半井さんを支持した議員を除名し、彼らは従来から市会にあった保守系無所属の横浜市政同志会に入り、同志会は最大会派になり、議長清水治作氏を選出する。
だが、議長になった清水治作さんは、横山さんや前議長の津村峰雄さんらの自民党の小姑にいびられ、わずか半年で死んでしまう。
そうなれば、次期議長は自民党の横山健一になり、横浜市政同志会の議員も次第に自民党へと戻っていった。
保守は、いい加減というか、理屈がつけばどうでも良いのである。
この頃、鈴木長之さんも自民党に戻ったはずだが、1963年の遺恨は残り、公職につけさせてもらなかったのである。
その後、息子の鈴木正之さんが議員になり、1991年5月には、33代の市会議長になられたのは、鈴木家悲願の公職就任だったと思う。
鈴木正之先生は、腰の低い方で、大変真面目で、例の中田宏市長が姉妹都市のサンディエゴに行き、問題を起こした時にも、公平な発言で話題になったのは、さすがだったと思う。
ご冥福をお祈りしたい。