小幡正雄議員について、続きを書いてくれとのコメントがあったが、これ以上書くと悪口になるのでやめる。
その代わりに、民社党について書く。民社党は、全国的には大企業労組の右派労働運動が政治部門だが、横浜には別の事情もあったので、書く。
横浜の民社党の中心は、言うまでもなく日産労組だが、他の人々もいた。
小幡さんのような理念的民社は少なく、地元の事情で民社から出たと言う人だった。
日本の戦後の政治は、なんと言っても自民党と日本社会党だが、そのどちらからも出られない方もいて、その窓口が民社党だった。
いろいろな方がいるが、緑区のS女子もかなりの大物だった。女性なので、ある婦人団体の長で、そこから出ていたが、実は当時横浜にはS女子とは対立するH女子の婦人団体もあり、これの方が大勢力だった。
そして、H女子は、社会党の大久保英太郎さんとも非常に仲良かったので、社会党からは出ずに民社党から出て中堅の議員だった。
1982年2月のある夜、横浜文化体育館で、細郷道一市長の二期目の総決起大会が開かれた。
細郷市長の二期目は、社会党も与党だったので、大会には自民、社会、公明党、新自由クラブの代表がひな壇に並ぶようになっていた。
そこに、元衆議院議員の門司亮さんが現れた。細郷市長を最初に引き出したのは、実は民社党の河村勝氏で、東大の同窓の「細郷氏が、自治省を辞めて横浜東口開発公社にいる」ので、横浜市長に引き出したのだ。
そうした経緯から、民社党は「われわれこそ本当の細郷与党だ」との意識があり、門司先生も来たのだと思う。門司先生は、地方自治の専門家、研究者でもあり、大変立派な方だが、現職ではないので、受付は誰も知らないのだ。
そこで激怒したのがS女子で、その怒りに驚き、急遽壇上に椅子が用意されて、式は始まった。
終わった後も、女子の怒りは収まらず、「車は用意していないの」と怒った。
私は、議長秘書として見ていたのだが、現役の議員じゃないので仕方ないではないかと思っていた。
サルと違い議員は落ちたらただの人なのだから。
翌日、S女子が脳梗塞で倒れたと聞いた。お怒りと寒さで脳梗塞になったのだろう。
病後は後遺症が残り、女性なので右麻痺と、言語障害になられた。だが、執念で任期中を日々議会棟に登庁された。
「すごい」と思ったが、さすがに市会事務局は、それまでなかったエレベーターを4階まで整備した。
S女子の最大のお仕事だと私は思っている。