「料亭政治」について書く。
料亭政治の始まりは、明治の藩閥政治の時代に、官僚や政治家が、新橋の料亭で会合をしたのが始まりだそうだ。
横浜にも、多くの料亭があり、神奈川の青木町と台町にあり、台町には今もあるようだ。
関内には多数あり、中区の根岸や磯子にもあり、南区の日本橋にも2軒あった。
金沢八景にもあり、ここが横浜の南限だったようだ。
多くは、なぜか水辺にあり、東京の大森海岸にも何軒かあり、私の両親の結婚式も、大森の澤田家だった。
ここでは、1960年代まで、芥川賞の選考会が行われていたと思う。
さて、以前書いた高城一郎市会事務局町の前は、小林法幸さんという方で、この人もエピソードの多い方だった。
市会前の平日の午後は、局長室にはいないと言う人で、午後はどこかの料亭で麻雀をやっていたそうだ。
飛鳥田市政以前は、自民党時代だが、様々な派閥があり、市会運営は大変だったようだ。
だから、小林氏は、各派の領袖と麻雀をやって情報収集していたらしい。
この人は、横浜市を辞めた後、神奈川大学の事務局長になったのだから、やはり大物だったようだ。
料亭政治はともかくとして、料亭そのものは横浜でも減っている。
その理由は、小泉純一郎・竹中平蔵のグローバルスタンダード路線によって、企業の会計基準が透明化されたからだ。
以前は、民間にオーナー企業では、経営者の意思で料亭が自由に使えたが、それが駄目になったからで、多くの元料亭は、ほとんがマンションに変わっている。
時代の性と言うべきだろうか。