8月22日に開票された横浜市長選挙は、立憲民主党らが、推薦した山中立春氏の圧勝に終わった。8人も立候補者が出たので、一時は「どの候補も法定得票にならず、再選挙では」と言われた選挙も実にあっけなく終了した。
私には、これは1963年の市長選挙とよく似ていると思える。
戦後、1947年に行われた最初の横浜市長選挙で当選したのは、日本社会党の石河京一氏だった。
彼は、戦前から横浜で労働運動をやっており、市議会や衆議院の議員でもあった。
だが、この方は、横浜市の古い人の話では、あまり評判が良くなかったようだ。吝嗇だったとの噂もあった、本当かどうかは知らないが。
そして、1951年の選挙では、自民党は横浜経済界のプリンス平沼亮三氏を立てる。
彼は、多数の会社の役員を務めていた他、スポーツマンで二枚目であり、人気があった。ちなみに、彼の孫の一人が俳優の石坂浩二であり、平沼氏に非常によく似ている。
平沼市長は、2期8年を務めたが、晩年はかなり老齢化しており、市会の答弁は田中助役が行っていたそうだ。
田中省吾氏は、内務官僚で、各地の助役等を務めた後、次期市長候補として横浜の自民党が迎えた方だった。
だから、平沼市長が退任された後は、田中氏が自民党の第一の市長候補だった。
だが、そこに異をとなえた方がいた。
元市長だった半井清氏だった。彼は、大物内務官僚で戦時中に最後の官選市長として、横浜市長を務めたが、戦後公職追放されていたが、この頃は追放も解けていた。
そこで、自民党、半井氏、田中氏がどこかで協議し、
「今回は半井氏を市長の候補とするが、次は田中氏に譲る」との密約が出来て、無事半井氏が横浜市長に当選された。料亭政治の時代の話である。
その4年後、本来なら田中氏に市長を譲るべきだったが、
「なんとかと市長は3日やると辞められない」の喩えのごとく、半井氏が「今度も出る」と言い出したのだ。
そこで自民党横浜市連は二つに割れた、田中派と半井派に。
そして、投票の結果、自民党の候補者は田中省吾氏となった。だが、半井派も、半井氏を無所属の候補として推薦して選挙になる。
このとき、出たのが「実弾」だった。自民党は、党から選挙資金が出るが、半井派はない。
半井市長は、新興埠頭の西側に「一文字埠頭」を急遽埋立てさせ、その土地の売却益を選挙戦資金としたのだ。
私も、昔港湾局時代に、一文字埠頭に行ったことがあるが、非常に変な埠頭で、道路が異常に狭く危険な埠頭、倉庫だった。
また、ここの土地所有者には、港湾関係でない会社もあった。かつて、横浜で港タクシーをやっていた谷田部巳男三郎氏の会社のものもあり、普通ではあり得ない土地所有だった。谷田部氏は、南区の市会議員でもあり、半井派だったわけだ。
この結果、横浜の自民党は、完全に分裂してしまい、社会党の飛鳥田一雄氏が当選してしまう。
この後、選挙で半井氏を支持した議員は、自民党を除名され、市会の要職から遠ざけられる。
中区の山本氏や南区の鈴木氏らがそうで、自民党は、島村力・横山健一ラインとなり、完全に鶴見区の横山氏の天下となる。
横山氏は、明治大学時代は文学青年だったそうで、同窓のこともあり、飛鳥田市長とは、良好な関係になる。さらに、第二助役だった清水氏が、鶴見区だったので、このラインからも飛鳥田時代は、横山健一自民党と良好な関係が続く。
野党だったのは、むしろ民社党で、横浜では日産の関係で、民社党は強く、だが自民と社会に挟まれて立場がなかった。だから、金沢の埋立て等に強硬に反対したのは自民ではなく、実は民社党だった。
横山氏の後は、中区の松村千賀雄が自民党のリーダーとなるが、それはまた書くことにする。
今回の山中氏の市長当選が、今後の横浜、全国にとってどのような意味があるのかは、今年中にある衆議院選挙の結果次第だ。
だが、横浜市長選挙は、いつも次の時代を示してきたのだから、決してその意味は小さくないと私は思うのだ。