私は、原則として家族と食物については書かないことにしている。どちらも、本人以外に興味がないからだ。よく、年賀状に家族や子供の写真を載せてくる方がおられるが、私は一度もしたことがない。他人の家族や子供など、私には関係がないからだ。
ただ、昨日は母の日だったので、母について書く。母は、1907年生まれで、私が生まれたときは、41歳だった。私には、3人の姉と兄がいるが、戦後父が「男が一人だけでは淋しい」とのことで、できたので、私だけが戦後生まれである。小学校の時は、母はもう50代だったので、他の若い母親たちに比べ、私の母は年取っていて、非常に嫌だった。母の生まれは、鶴見の矢向で、普通の農家、百姓の生まれである。一応自作農で、母は「家は小作人じゃない」とやや自慢気味に言っていた。父の家は、当時は分家だが、本家は池上村の百姓代とのことで、一応地主の家系だったようだ。本当は、もっと土地を持っていたようだが、お定まりの借金の保証人になったが、借金が返せなくなり、その返済のために、本家に土地を返したとのことで、相当に減ったとのこと。簡単に言えば、経済に疎い農民の失敗である。さて、母と父は、当然にも見合い結婚で、南部線の車内の中でやったとのこと。母に言わせれば、「ちらっと見ただけで、よくわからなかったが、ハゲているのでは・・・」と思ったとのこと。父は、若い頃から額が広くハゲていて、もらった写真でもハゲていたが、「写真の性だろう」とのことで、納得したとのこと。当時、父は小学校の教員で、生活が安定したことが最大の理由だと思う。母は、長女で、下に5人の妹と弟がいた。その性か、母は非常に面倒見がよく、悪く言えば、お節介な女性だった。この世話好きの性格は、5人の子供の誰にも遺伝していないように思う。特に、私がまったく世話好きではない。ただ、一つだけ母からの遺伝ではと思うのが、すぐに物に飽きることだ。好奇心が強いが、それにすぐ飽きるのだ。姉に聞くと、母と旅行に行くが、何かを見ても、見てすぐ次に行ってしまうとのこと。実は、私もそうで、展覧会等で、ある物を見ても、すぐに次に行きたくなるのだ。母は、かなり感情的というか、むしろ激情的な人で、ここも私とは正反対である。歌舞伎好きだった父の後を継ぎ、母も歌舞伎好きで、歌舞伎座の株主で毎月見に行くのを楽しみにしていた。その性か、女性の俳優やタレントのルックスには厳しくて、テレビを見ても、「この人はずいぶんと器量が悪いね」と言っていた。今は、テレビ出る俳優は、整形の性か、皆きれいなので、なんと言うだろうか。
ただ、昨日は母の日だったので、母について書く。母は、1907年生まれで、私が生まれたときは、41歳だった。私には、3人の姉と兄がいるが、戦後父が「男が一人だけでは淋しい」とのことで、できたので、私だけが戦後生まれである。小学校の時は、母はもう50代だったので、他の若い母親たちに比べ、私の母は年取っていて、非常に嫌だった。母の生まれは、鶴見の矢向で、普通の農家、百姓の生まれである。一応自作農で、母は「家は小作人じゃない」とやや自慢気味に言っていた。父の家は、当時は分家だが、本家は池上村の百姓代とのことで、一応地主の家系だったようだ。本当は、もっと土地を持っていたようだが、お定まりの借金の保証人になったが、借金が返せなくなり、その返済のために、本家に土地を返したとのことで、相当に減ったとのこと。簡単に言えば、経済に疎い農民の失敗である。さて、母と父は、当然にも見合い結婚で、南部線の車内の中でやったとのこと。母に言わせれば、「ちらっと見ただけで、よくわからなかったが、ハゲているのでは・・・」と思ったとのこと。父は、若い頃から額が広くハゲていて、もらった写真でもハゲていたが、「写真の性だろう」とのことで、納得したとのこと。当時、父は小学校の教員で、生活が安定したことが最大の理由だと思う。母は、長女で、下に5人の妹と弟がいた。その性か、母は非常に面倒見がよく、悪く言えば、お節介な女性だった。この世話好きの性格は、5人の子供の誰にも遺伝していないように思う。特に、私がまったく世話好きではない。ただ、一つだけ母からの遺伝ではと思うのが、すぐに物に飽きることだ。好奇心が強いが、それにすぐ飽きるのだ。姉に聞くと、母と旅行に行くが、何かを見ても、見てすぐ次に行ってしまうとのこと。実は、私もそうで、展覧会等で、ある物を見ても、すぐに次に行きたくなるのだ。母は、かなり感情的というか、むしろ激情的な人で、ここも私とは正反対である。歌舞伎好きだった父の後を継ぎ、母も歌舞伎好きで、歌舞伎座の株主で毎月見に行くのを楽しみにしていた。その性か、女性の俳優やタレントのルックスには厳しくて、テレビを見ても、「この人はずいぶんと器量が悪いね」と言っていた。今は、テレビ出る俳優は、整形の性か、皆きれいなので、なんと言うだろうか。