横浜市の交通事業が100年を迎えたそうだ。1921年4月に始まったので、ちょうど100年というわけだ。民間の私鉄として始まったものを市が吸収したのは、東京などと同じである。当初は、横浜市電気局として開始され、後に交通局になったのは、電気事業が総動員法で、5大電力会社に統合されたからだ。戦時中も、工場への労働者の移送で大繁盛で、それは戦後も続いた。戦時中の人員輸送の繁盛は、そのため川崎市でも臨港地区の工場へ多数の労働者を運ぶために、路面電車を事業を始めたことでも明らかだろう。横浜の市電とバス事業の最盛期は、1950年代で、今から考えれば信じがたいが、黒字を一般会計に入れていた他、自社ビルも持ち大変に裕福だったようだ。横浜市交通局の給与が良いことは、戦前から有名で、私が議長秘書として2年間仕えた西区の鈴木喜一先生も、家が貧しかったために、市電の運転手になり、貯金をして親に家を買ってやり、自分はミシン会社の代理店の権利を買って事業を始めたくらいだ。この路面電車が赤字になったのは、1960年代の経済成長により、人々が車持ち始めたからである。おおむね、人口が100万人を越えると、路面電車は成立しないと言われている。人の移動が、市街地だけではなく、郊外にまで広がると、路面電車では無理で、鉄道になってしまう。
さて、100年の歴史のある横浜市の交通事業だが、映画に残っているのは意外に少ない。篠田正浩監督の映画『わが恋の旅路』くらいなものだと思う。これは、原作がなんと曽野綾子で、脚本は寺山修司であるが、ラストは原作とは異なり、ハッピーエンドになっている。そこには、南区の捺染工場、花月園競輪、そして市電が映っている貴重な作品である。
さて、100年の歴史のある横浜市の交通事業だが、映画に残っているのは意外に少ない。篠田正浩監督の映画『わが恋の旅路』くらいなものだと思う。これは、原作がなんと曽野綾子で、脚本は寺山修司であるが、ラストは原作とは異なり、ハッピーエンドになっている。そこには、南区の捺染工場、花月園競輪、そして市電が映っている貴重な作品である。