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Channel: 指田文夫の「さすらい日乗」
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最後の真壁の水田はやらなかった

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昨日は、時間があったので、1962年の早稲田大学劇団演劇研究会の『斬られの仙太』で衣装をやられた林さんの電話して、話しを聞く。いろいろとあったが、驚いたのは、最後の真壁の水田の場面はやらなかったことだ。その前は、全部きちんとやり、非常に長かったようだ。そこで、「最後の場面をやらないと意味ないではないか」と聞くと、「今から見れば、そうだが、当時はやはり反体制運動の裏側を描くのは問題との意見が強くて、カットしたのだ」とのこと。当時、劇研のリーダーの一人だった大谷静男さんも、カットを強く主張したとのこと。「へえ・・・」と思うが、時代が違うのだね。
          
当時、劇研の隣には劇団自由舞台があり、今や岩波文化人の鈴木忠志先生も、当時は普通の新劇をやっていた。だが、60年安保の後で、それまでの日本の新劇が「社会主義リアリズム」で進歩的テーマを主題としていた。だが、林さんによれば、「安保の後で、社会主義の意義にも皆疑問を持ちだし、主題を喪失したことが、演技の表現の方に行ったのだろう」とのことだった。要は、「鈴木メソッドの鈴木忠志理論」も後付けだったわけだ。
この前後に、劇研からは、草間暉雄、津野海太郎らが、1961年に独立劇場を作り、鈴木らは劇団自由舞台を作り、さらに早稲田小劇場を作る。(草間は、民芸の女優だった草間靖子の兄で、結構良い二枚目だったらしい)いろいろと動いていた時期で、1962年の春の『斬られの仙太』の後は、きちんとした公演ができず、秋は試演会にしたとのこと。このときの演出は、後に劇団四季、さらに新国立劇場に行かれた須田武男さんだったが、大分前に亡くなられたとのことだ。



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