コロナの4波目が来たようで、大学でも対面授業はやめて、オンラインにすることが増えているようだ。確かに、単に勉強をするだけなら、オンラインでも可能だろう。だが、大学の意味は、勉強や学習だけではないと思う。いろんな連中と会い、交流することが大学の意味だと思う。「世の中には、こんなすごい人間もいるのか」、「この程度の男で受かったの」など、様々な連中と出会うことが最大の意味だと思う。
私の場合は、1年の秋に、学生劇団の早稲田大学演劇研究会に入った。すると、そこには2浪して、8年生の林さんという人がいた。当時、すでに28歳だった。栃木の大田原の林さんは、家の事情で東大を受験していたが受からず2浪になり、仕方なく早稲田に来た。大学入学は1958年で、当時はまだ新宿には赤線があり、劇団の先輩に連れて行かれたそうだ。そして、1960年6月15日には、国会に突入した全学連学生の一人だったというのだ。と言って、特定の党派に属していたわけではなく、早稲田の政経学部の学生の一人としてデモに行き、そのまま国会に入ってしまったのだそうだ。そんな人が、その劇団にいたとは、本当に驚きましたね。この人からは、いろんなことを教えてもらった。モダン・ジャズのこと、吉本隆明のこと、演劇のこと、当時早稲田小劇場を作る早稲田の隣の劇団自由舞台の鈴木忠志らのことなど。役者としては下手だった鈴木忠志を見た人など、そうざらにはいないに違いない。また、公演の赤字の補填ためにアルバイトで行った東京映画スタジオでの、豊田四郎監督の『甘い汗』での、主演の京マチ子のスタイルが異常に良かったことなど。
教わったことは非常に多いが、私の場合は相当に普通ではないと思うが、大学で意味があるのは、こうした少々普通ではない人と出会うことだと私は思うのだ。
私の場合は、1年の秋に、学生劇団の早稲田大学演劇研究会に入った。すると、そこには2浪して、8年生の林さんという人がいた。当時、すでに28歳だった。栃木の大田原の林さんは、家の事情で東大を受験していたが受からず2浪になり、仕方なく早稲田に来た。大学入学は1958年で、当時はまだ新宿には赤線があり、劇団の先輩に連れて行かれたそうだ。そして、1960年6月15日には、国会に突入した全学連学生の一人だったというのだ。と言って、特定の党派に属していたわけではなく、早稲田の政経学部の学生の一人としてデモに行き、そのまま国会に入ってしまったのだそうだ。そんな人が、その劇団にいたとは、本当に驚きましたね。この人からは、いろんなことを教えてもらった。モダン・ジャズのこと、吉本隆明のこと、演劇のこと、当時早稲田小劇場を作る早稲田の隣の劇団自由舞台の鈴木忠志らのことなど。役者としては下手だった鈴木忠志を見た人など、そうざらにはいないに違いない。また、公演の赤字の補填ためにアルバイトで行った東京映画スタジオでの、豊田四郎監督の『甘い汗』での、主演の京マチ子のスタイルが異常に良かったことなど。
教わったことは非常に多いが、私の場合は相当に普通ではないと思うが、大学で意味があるのは、こうした少々普通ではない人と出会うことだと私は思うのだ。