坂野潤治が亡くなられたそうだ。私は前に以下のように書いたことがある。
『昭和史の決定的瞬間』 坂野潤治 ちくま新書 2015/5/25 歴史に決定的瞬間はもちろんあるが、それは普通は、その時とは分からずに通過してしまい、後のなってあの時が、実はターニングポイントの重大な時だったと思うものである。著者の坂野潤治は、昭和史のその時を、昭和12(1937年)の2月だとしている。1937年と言えば、すぐに2・26事件とくるが、実はその1週間前の2月20日に衆議院総選挙が行われていたが、このことは私も良く知らなかった。この選挙への経緯は、貴族院議員でもあった美濃部亮吉博士の「天皇機関説」排撃が不徹底だとして、軍部や大衆、新聞等に推された形で野党政友会が、岡田啓介内閣に不信任案を出し、首相がそれに対して解散をしたものであった。この経緯も非常に複雑なもので、岡田内閣自体が、今日のような政党内閣ではないので、内閣不信任、解散の経緯も一度ではなかなか理解しにくいが、詳説されていて私も初めて戦前の政局の複雑さが分かった。1932年の5・15事件で、犬養首相が殺されて、政党内閣が終了していたが、岡田首相は天皇の信任も厚く一応穏健な政策だった。この選挙の結果は、第一党であった政友会が242から171へと議席を減らし、民政党は127から205と議席を増やしたのである。さらに左派の社会大衆党と無所属で実は社会主義者の加藤勘十、黒田寿男、松本治一郎ら4名も当選したので、22名と戦前にもかかわらず多くの当選者を出していた。ただ、麻生久を代表とする社会大衆党は、社会主義で労働法政や福祉を求めるものだったが、同時に親軍であり、「広義国防」の軍拡を求めるという立場だった。確かに、昭和恐慌以後の景気回復は、軍需景気によってなされたことは事実で、労働者の立場に立てば軍需拡張は正しいことでもあった。これは、言うまでもなく戦後は、日本共産党によって「社会ファシズム」として社会民主主義者を戦犯とする根拠になる。この辺は、政治学者伊藤隆によれば、戦時下の統制経済を支えた産業報国会には、労働組合幹部から転向した共産党員が多数いたというのだから、どっちもどっちで、要は全国民が戦争体制に動員されたのである。そして、選挙の1週間に、陸軍の青年将校によって2・26事件が起こされ、岡田首相は人違いで殺害されなかったが、重臣、軍人らが暗殺され、岡田内閣は総辞職する。この時、最初に後継首相に当てられたのは、宇垣一成で、著者は彼に「平和と反ファシズム」を見出している。さらに、一種の人民戦線的役割も見出しているが、これはないものねだりだと私は思う。だが、宇垣は首相を辞退し、後継は広田弘毅となり、この内閣以後、戦争へと進んでいくことになる。大変に興味深い問題提起があるが、記述が行ったり来たりするので、やや分かりにくい。そして、実はほぼ同時期に、今は保守派に転じたらしい政治学者の伊藤隆の『歴史と私』も読んだのだが、彼と坂野潤治は、かなり親密だったようで、多くの方のヒアリングを一緒にやっている。人間と言うものは、分からないものである。
坂野先生は、資料探求と同時に、このように歴史を様々な角度から見ることを提起された方だったと思う。ご冥福をお祈りしたい。
『昭和史の決定的瞬間』 坂野潤治 ちくま新書 2015/5/25 歴史に決定的瞬間はもちろんあるが、それは普通は、その時とは分からずに通過してしまい、後のなってあの時が、実はターニングポイントの重大な時だったと思うものである。著者の坂野潤治は、昭和史のその時を、昭和12(1937年)の2月だとしている。1937年と言えば、すぐに2・26事件とくるが、実はその1週間前の2月20日に衆議院総選挙が行われていたが、このことは私も良く知らなかった。この選挙への経緯は、貴族院議員でもあった美濃部亮吉博士の「天皇機関説」排撃が不徹底だとして、軍部や大衆、新聞等に推された形で野党政友会が、岡田啓介内閣に不信任案を出し、首相がそれに対して解散をしたものであった。この経緯も非常に複雑なもので、岡田内閣自体が、今日のような政党内閣ではないので、内閣不信任、解散の経緯も一度ではなかなか理解しにくいが、詳説されていて私も初めて戦前の政局の複雑さが分かった。1932年の5・15事件で、犬養首相が殺されて、政党内閣が終了していたが、岡田首相は天皇の信任も厚く一応穏健な政策だった。この選挙の結果は、第一党であった政友会が242から171へと議席を減らし、民政党は127から205と議席を増やしたのである。さらに左派の社会大衆党と無所属で実は社会主義者の加藤勘十、黒田寿男、松本治一郎ら4名も当選したので、22名と戦前にもかかわらず多くの当選者を出していた。ただ、麻生久を代表とする社会大衆党は、社会主義で労働法政や福祉を求めるものだったが、同時に親軍であり、「広義国防」の軍拡を求めるという立場だった。確かに、昭和恐慌以後の景気回復は、軍需景気によってなされたことは事実で、労働者の立場に立てば軍需拡張は正しいことでもあった。これは、言うまでもなく戦後は、日本共産党によって「社会ファシズム」として社会民主主義者を戦犯とする根拠になる。この辺は、政治学者伊藤隆によれば、戦時下の統制経済を支えた産業報国会には、労働組合幹部から転向した共産党員が多数いたというのだから、どっちもどっちで、要は全国民が戦争体制に動員されたのである。そして、選挙の1週間に、陸軍の青年将校によって2・26事件が起こされ、岡田首相は人違いで殺害されなかったが、重臣、軍人らが暗殺され、岡田内閣は総辞職する。この時、最初に後継首相に当てられたのは、宇垣一成で、著者は彼に「平和と反ファシズム」を見出している。さらに、一種の人民戦線的役割も見出しているが、これはないものねだりだと私は思う。だが、宇垣は首相を辞退し、後継は広田弘毅となり、この内閣以後、戦争へと進んでいくことになる。大変に興味深い問題提起があるが、記述が行ったり来たりするので、やや分かりにくい。そして、実はほぼ同時期に、今は保守派に転じたらしい政治学者の伊藤隆の『歴史と私』も読んだのだが、彼と坂野潤治は、かなり親密だったようで、多くの方のヒアリングを一緒にやっている。人間と言うものは、分からないものである。
坂野先生は、資料探求と同時に、このように歴史を様々な角度から見ることを提起された方だったと思う。ご冥福をお祈りしたい。