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Channel: 指田文夫の「さすらい日乗」
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菅義偉市会議員再説

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菅義偉氏が総理大臣になって1ヶ月が過ぎたそうだ。言うまでもなく、彼の最初の政治的経歴は、横浜市西区の市会議員だった。以前、私は次のように書いたことがある。
         
昔、横浜市の市会事務局の管理職の中では、議員さんをあだ名で呼ぶ習慣があった。昨年亡くなられた議長を4年間も務めた大久保英太郎さんは、郵政省で電報配達をやっていたので、デンポー、同じく社会党の議員で高地と言う方は、宴会になると三波春夫の『雪の渡り鳥』を踊るので、「三度笠の高地さん」など。鉄人と言うのもあったが、この人は首が肩にめり込むようにな巨体だったので、「鉄人28号から命名」と言った具合だった。中で、「ミシン屋さん」というのは、西区選出の自民党の市会議員で、26代の市会議長も勤められた鈴木喜一さんだった。彼は、西区久保町に生まれ、家が貧しかったのだろう、高等小学校を出て、市電の運転手になった。当時、市電の運転手の給料は高かったのだ。それで貯金し、戦後はリッカー・ミシンの代理店をやって成功した。それで、ミシン屋といわれた。若いときから政治が好きで、戦前は「民政党の院外団にいた」と言っていた。ボクシングも好きで、横浜の川合ジムの後援会長もやっていた。私が、秘書をやっていた議長の頃は、もうミシン屋はやっていなかったが、リッカー・ミシンが横浜駅西口に傍系ホテルである「ホテル・リッチ横浜」を作るときは、リッカーの担当者は議長室に日参し、鈴木さんは建築当局等との交渉を仲介していた。鈴木さんは、苦労人だったが、性格的にはかなり好き嫌いが激しく、特に当時横浜の自民党のボスだった鶴見区の横山健一さんとは大変に仲が悪かった。「社会党の大久保英太郎さんが、4年間も議長をやったのは、横山さんが鈴木さんを議長にしたくないからだ」と言われたが本当である。敵対する党派の議員よりも、自派の嫌いな人間の方がより憎いのだ。横山さんと大久保さんのつながりは、市会議員野球団から来ていた。横山さんは監督、大久保さんは主将だった。大久保さんの奥さんが交通事故で亡くなられた時、後妻を世話したのは横山さんで、どこかのお座敷に出ていた人だとの噂もあり、女性に対して潔癖だった鈴木さんは、その点でも横山・大久保さんらとは合なかったのだと思う。この鈴木さんの依怙地な性格は、議員を辞めるときも出て、2年間の議長を終えて次の選挙のとき、引退含みで、当時小此木彦三郎衆議院議員の秘書だった菅さん(前総務大臣の菅義偉さんである)を西区の市会議員の公認候補にされてしまった。本当は、鈴木さんも議長を辞めた後は、自分の次男を後継者にするつもりで、彼にも準備させていた。だが、その次男は30代で急死してしまったのである。長男は、横浜の某デパートの課長で、出る気はまったくなかった。そこで、再度鈴木さんは、周囲から押されて選挙に出る羽目になってしまった。そして、本当は菅さんを公認した小此木さんが「喜一下ろし」の元凶なのだが、親分子分の関係の強い自民党では、親分の小此木さんには逆らえないので、菅さんの公認の形式的責任者である「西区選出の県会議員斉藤達也が怪しからん」と言うことになり、「斉藤憎し」で、西区の県会に立候補した。それには、斉藤県議は、元横浜市会議長で、愛人を市外出張に連れてきたという噂もあった津村峰男議長の隠し子であり、それも不愉快だったのかもしれない。すると同情票が入り、現職の斉藤さんを破り当選してしまったまことに、男の嫉妬と言うか憎しみと言うのはすごいものである。そして、無事1期務め、よせばいいのに、再度立候補して、今度は落ちた。数年後、鈴木先生は亡くなられた。
森の石松のようなある意味単純明快な方で、私は好きな議員さんだった。
こうした事情があったので、菅議員については、あまり良い印象を持てなかったが、幸いにも彼の1期目は、私はパシフィコ横浜にいたので、無関係だった。私が市役所に戻ったときは、総務局国際室で、「利権」とはまったく無関係な部署だったので、菅議員とは、これまた幸か不幸か無縁だった。


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