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Channel: 指田文夫の「さすらい日乗」
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学研でのアルバイト

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大学時代にやったアルバイトに、学研、学習研究社のがあった。「中学時代」の編集部での原稿取りだった。その編集部に、兄の高校時代の友人がいたので、その紹介で、1年の時の冬にやった。雑誌には、小説やマンガの欄があり、その原稿を作者の家や事務所に行って受け取ってくるのである。だが、一応学習雑誌なので、マンガは多くなく、小説の方が多かったようで、少女小説の作家の家に行くのが多かった。多くの作家の家や事務所は、西武線沿線が多く、学研のあった馬込からまず、バスで池上線の駅に出て、五反田で山手線に乗り、新宿や池袋に行き、西武線で作家の家を目指す。この馬込という非常に不便な場所に社屋があったのは、社長の方針で、馬込のような周囲になにもなく、不便なところなら社員はまじめに働き、遊ばないだ漏斗の方針だったようだ。しかし、出版社のようなところは、神保町や神田のような周囲にも同業社があるところにあるべきで、そうしたところからいろんなアイディアが生まれるものだと、元学研にいた人から聞いたことがある。
                   
少女小説家は、東京の郊外だが、大きな良い家に住んでいて、「すごいものだな」と思ったものだ。編集者曰く、「たくさん書いているからね」このとき、元青年俳優座にいたという人にも会ったことがある。荻窪の喫茶店で会った。それは、イラスト原稿の修正版で、すぐに仕事は終わり、俳優時代のことを聞かされた。当時、すでに元青年俳優座の蜷川幸雄は、現代人劇場の演出家として名声を得ていて、それに触れると、「彼は出世したね」と言っていた。実は、同時期に、私の友人も、その人に別の仕事で会っていて、「非常に無愛想だった」と言っていたが、私にはそうでもなかったが、「俳優も大変だな」と思ったものだ。一方、友人は、その人の生活の苦しそうなところを見て、演劇の世界で働くことを諦めたとのことだった。
マンガについては、新宿だったと思うが、トキワ荘のようなアパートに原稿取りに行くと、数人の漫画家がいて、わいわいやっていた。また、新宿12社の、ビルに行くと、赤塚不二夫らがいた。彼は、なにもせず、たばこを立って吸っていたと思う。なぜ、この楽なアルバイトを続けなかったかと言えば、あまり金が良くなかったからだと思うが、よく憶えていない。
今では学研も馬込をやめて、五反田にビルを持っているようだ。当然だろうと思う。

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