演劇評論家の渡辺保さんは、東宝演劇部にいる時代、長谷川一夫の「長谷川歌舞伎」の担当で、彼自身によく会ったそうだ。
長谷川は、「芝居の幕は、登場人物が負っている枷が最後の最後の台詞で、すべてが解放されるような構成でないと、本来降りないものだ」との名言をいったとのことだ。
伊藤大輔脚本の名作『薄桜記』は、最後の寺の七面山の広場での殺陣の場面で、主要人物の負っているものがすべて解放される。
雷蔵は、妻を犯した連中を全員殺し、吉良の茶会の日取りを確かめに来た勝新は、伊沢一郎の拳銃で殺された妻の真城千都世の今わの際の一言で、明日の夜であること知り、義士の討ち入りに成功する。
ここに至るには、結構筋は横に行ったりしていて、なかなかすべての枷が解けない。
だが、雷蔵の獅子奮迅の活躍の時、すべてが解放される。
まことに見事な脚本だと思う。
伊藤大輔の脚本は、五味の原作とは違うところがあるそうだが、実に名作である。
戦中、戦後の伊藤は、日活が二流会社の新興キネマに吸収されたことから、京都撮影所で、旧日活派の内田吐夢と同様に、「窓際族」になり、新興キネマの連中の方が幅を利かせる状況になり、スランプに陥る。
内田に至っては、満州映画協会に行ってしまったほどだ。
戦後の作品でも、私は伊藤大輔の作品は、そう良いとは思えない。
むしろ、こうした脚本、あるいは監督作品では『王将』や『弁天小僧』などが良いくらいで、戦後の映画にはあまり冴えを感じないのである。
来週には、『弁天小僧』があるので、楽しみにしている。
横浜シネマリン
長谷川は、「芝居の幕は、登場人物が負っている枷が最後の最後の台詞で、すべてが解放されるような構成でないと、本来降りないものだ」との名言をいったとのことだ。
伊藤大輔脚本の名作『薄桜記』は、最後の寺の七面山の広場での殺陣の場面で、主要人物の負っているものがすべて解放される。
雷蔵は、妻を犯した連中を全員殺し、吉良の茶会の日取りを確かめに来た勝新は、伊沢一郎の拳銃で殺された妻の真城千都世の今わの際の一言で、明日の夜であること知り、義士の討ち入りに成功する。
ここに至るには、結構筋は横に行ったりしていて、なかなかすべての枷が解けない。
だが、雷蔵の獅子奮迅の活躍の時、すべてが解放される。
まことに見事な脚本だと思う。
伊藤大輔の脚本は、五味の原作とは違うところがあるそうだが、実に名作である。
戦中、戦後の伊藤は、日活が二流会社の新興キネマに吸収されたことから、京都撮影所で、旧日活派の内田吐夢と同様に、「窓際族」になり、新興キネマの連中の方が幅を利かせる状況になり、スランプに陥る。
内田に至っては、満州映画協会に行ってしまったほどだ。
戦後の作品でも、私は伊藤大輔の作品は、そう良いとは思えない。
むしろ、こうした脚本、あるいは監督作品では『王将』や『弁天小僧』などが良いくらいで、戦後の映画にはあまり冴えを感じないのである。
来週には、『弁天小僧』があるので、楽しみにしている。
横浜シネマリン