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Channel: 指田文夫の「さすらい日乗」
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『どん底』

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1910年の自由劇場公演以来、日本では新劇の一八番として、『どん底』は上演されて来たが、私が見たのは1985年の佐藤信演出のもので、これについては『ミュージック・マガジン』にかなり否定的に書いた。
だが今回の、小川絵梨子芸術監督下の五戸真理枝演出を見ると、佐藤信版ははるかに良かったなと思った。
佐藤では、帝政ロシアの木賃宿は、昭和初期の新宿のトンネル長屋に変えられていた。
ここでは、どこかの高速道路下になっていた。
どのように変えても、それは原作の趣旨を変えなければ(趣旨を変えるのは、著作者人格権の侵害になり問題)上演者たちの自由である。
だが、その結果はというと、残念ながらあまり感心できないものだった。

そこに登場人物が集まり、なんとなく劇は始まるが、現在の日本の若者たち風である。
原作の主題は、貧困と出口なしの状況だが、ここにはどちらも感じられなかった。
そして1幕が終わり、二幕になると、そこは警察の手で立ち入り禁止のロープが張られている。
そこに俳優が出てくるが、今度は昔のロシア風の衣装になっている。
最後、結末は原作どおおりで終わり、この警察の立ち入り禁止の措置はどうなったのかと思う。
権力による禁圧といえば、蜷川幸雄・清水邦夫の『鴉よ、俺たちは弾丸をこめる』での、劇場だった新宿文化の出口に配置された機動隊が有名で、五戸らはこれに何か今日的なものを加えたのかと思ったが、ついに全くなし。
現在の日本で貧困といえば、子供と外国人となるだろうが、そうした視点はなし。

この愚劇でも、二つだけ良いことがあった。
それは、ルカの立川三貴の演技が良かったこと。
もう一つは、「昼でも夜でも牢屋はくらい・・・」の歌が、合唱で歌われたことだった。
1931年の小津安二郎の映画で、『東京の合唱』があり、「東京のコーラス」と読む。
だが、サイレント映画なので、どのように歌ったのかは不明だが、旧制中学の校歌なので、コーラスではなくユニゾンだったと思う。
小津にしても、コーラスとユニゾンの違いは不明だったのだが、今日は誰でもわかり、愚劇でもきちんとコーラスで歌われていた。
これは別に五戸演出の手柄ではなく、近年のカラオケの普及の結果である。
また、立川の演技は、昔の新劇の伝統であり、新劇もバカにならないなとあらためて思ったのだ。
新国立劇場

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