ここの中心は、1970年代に東映が作ったスケバン、つまり女番長シリーズで、実を言うと私はあまり見ていない。東映が作った現代劇は、京都撮影所が作る「ヤクザ映画」にくらべて安直で、よいものがなかったからである。1960年代末から70年代初頭は、東映のヤクザ映画の全盛期で、鶴田浩二、高倉健、そして藤純子らの様式的で美しい作品が揃っていた。
日活や大映も追従してヤクザ映画を作ったが、個人主義のヒーローの日活には集団主義のヤクザ映画はなじまず、大映では江波杏子の「女賭博師」シリーズのみだった。
やはり、スタジオの伝統はそう簡単には変えられないということだ。
日活と大映は、ダイニチ映配という共同配給機構を作るが駄目で、日活はロマンポルノに、大映は結局は、会社は違うのだがテレビ映画に移行していくことになる。
ポルノの最初が実は日活ではなく、東映であるように、スケバン映画も、実は東映ではなく、日活であることが明らかにされる。1968年の太田雅子主演の『残酷おんな私刑』で、ここでのリンチシーンでの太田の迫力に社の上層部が驚き、「彼女にはもっと過激な役を」として、『野良猫ロック』シリーズでのアクションになったという。西河克己も『夜の牝・花と蝶』の撮影で、自分からヌードになった彼女にうろたえたと書いている。
もっとも、「野良猫ロック」のバイクやバギーを走らせる愚連隊も、東映のヒットシリーズ「不良番長」のいただきなのだから、映画のような大衆文化は、常に相互に依存し、影響しあっているのである。
そして、ヤクザ映画低迷の中で、東映は『徳川女系図』などの不良性感度の高い路線をとることになる。これは東西の撮影所に混乱を起こし、池玲子、杉本美樹という素人からいきなりカメラの前に立つ女優を作ることになる。
作者は、池玲子に思い入れがあるようで、彼女の経緯を細かく追うが、私は池にはまったく興味がなく、杉本の方を贔屓していたので、ここは不満である。
そして、日活ロマンポルノとなるが、ここへも八城夏子のように、東映から転身して成功した女優たちのことが詳細に書かれているのは良い。
要は、映画、テレビ、雑誌グラビア等、どこかで売れればよいと考える女性たちが生まれていたのだ。
その背景としては、ウーマンリブに象徴される女性の地位向上があったというのは正しい指摘である。
唯一、私と考えが異なるのが、東映の『聖獣学園』と東宝で公開された『混血児リカ』の評価である。
『聖獣学園』は、多岐川裕美が裸になるというのが嘘だった作品だが、ここで悪の権化の学園の支配者渡辺文雄が言う台詞には私は感動したものだ。
「アウシュビッツで、広島で神はなにをしたのか、神は人を見捨てたのだ、だから我々はなにをやってもいいのだ!」と叫ぶが、これは正しいと思う。
『混血児リカ』は、『闇の中の魑魅魍魎』の赤字を補填するために中平康が作ったひどいアクション映画で、主人公青木リカのド素人演技はどうやっても評価できるとは思えない。
また3作目は、見ていないが脳梗塞からカムバックした吉村公三郎が撮ったそうで、この本のように良い作品だったとは思えないのだ。
そして、こうした日活、東映の混乱の中に世界的な最大の話題作が来る。
ブルー・スリーの「ドラゴン」シリーズである。
これによって東映も日活も路線変更してゆくのだ。
わずか数年間だったが、スケバン映画は、日本映画の娯楽作を支えたのである。
日活や大映も追従してヤクザ映画を作ったが、個人主義のヒーローの日活には集団主義のヤクザ映画はなじまず、大映では江波杏子の「女賭博師」シリーズのみだった。
やはり、スタジオの伝統はそう簡単には変えられないということだ。
日活と大映は、ダイニチ映配という共同配給機構を作るが駄目で、日活はロマンポルノに、大映は結局は、会社は違うのだがテレビ映画に移行していくことになる。
ポルノの最初が実は日活ではなく、東映であるように、スケバン映画も、実は東映ではなく、日活であることが明らかにされる。1968年の太田雅子主演の『残酷おんな私刑』で、ここでのリンチシーンでの太田の迫力に社の上層部が驚き、「彼女にはもっと過激な役を」として、『野良猫ロック』シリーズでのアクションになったという。西河克己も『夜の牝・花と蝶』の撮影で、自分からヌードになった彼女にうろたえたと書いている。
もっとも、「野良猫ロック」のバイクやバギーを走らせる愚連隊も、東映のヒットシリーズ「不良番長」のいただきなのだから、映画のような大衆文化は、常に相互に依存し、影響しあっているのである。
そして、ヤクザ映画低迷の中で、東映は『徳川女系図』などの不良性感度の高い路線をとることになる。これは東西の撮影所に混乱を起こし、池玲子、杉本美樹という素人からいきなりカメラの前に立つ女優を作ることになる。
作者は、池玲子に思い入れがあるようで、彼女の経緯を細かく追うが、私は池にはまったく興味がなく、杉本の方を贔屓していたので、ここは不満である。
そして、日活ロマンポルノとなるが、ここへも八城夏子のように、東映から転身して成功した女優たちのことが詳細に書かれているのは良い。
要は、映画、テレビ、雑誌グラビア等、どこかで売れればよいと考える女性たちが生まれていたのだ。
その背景としては、ウーマンリブに象徴される女性の地位向上があったというのは正しい指摘である。
唯一、私と考えが異なるのが、東映の『聖獣学園』と東宝で公開された『混血児リカ』の評価である。
『聖獣学園』は、多岐川裕美が裸になるというのが嘘だった作品だが、ここで悪の権化の学園の支配者渡辺文雄が言う台詞には私は感動したものだ。
「アウシュビッツで、広島で神はなにをしたのか、神は人を見捨てたのだ、だから我々はなにをやってもいいのだ!」と叫ぶが、これは正しいと思う。
『混血児リカ』は、『闇の中の魑魅魍魎』の赤字を補填するために中平康が作ったひどいアクション映画で、主人公青木リカのド素人演技はどうやっても評価できるとは思えない。
また3作目は、見ていないが脳梗塞からカムバックした吉村公三郎が撮ったそうで、この本のように良い作品だったとは思えないのだ。
そして、こうした日活、東映の混乱の中に世界的な最大の話題作が来る。
ブルー・スリーの「ドラゴン」シリーズである。
これによって東映も日活も路線変更してゆくのだ。
わずか数年間だったが、スケバン映画は、日本映画の娯楽作を支えたのである。