西部の小さな田舎の駅にSLからジェームス・スチュアートのランス上院議員と妻ハリーのベラ・マイルズが降りてくる。
後にメキシコ系の人間が多数出てくるので、メキシコに近いテキサスあたりなのだろうか。
彼は大人物だとして、その町唯一の新聞社の社主と記者が来て、「なぜ来たのか」と聞くと「葬式に来ただけだ」と言い、
その相手はジョン・ウエィンのトム・ドニファンである。
この映画を昔、フジテレビでみたとき、「『魚屋宗五郎』みたいだな」と思った。河竹黙阿弥の『魚屋宗五郎』については、ウィキペディアにありますので読んでください。
東部で法律を学んだランスが西部の町に来ると、そこは準州で、法の支配はなく、リー・マービンの悪党のリバティ・バランスらが実験を握っていて、その奥には大牧場主の思惑があった。
準州だと法の支配が及ばないと言うのはよくわからないが、州への昇格運動も一方にある。
町に来る途中で、ランスはリバティ・バランスに襲われて一文なしになったので、ハリーがやっているレストランンで働くことになる。
レストランとは言っても、ステーキと豆、パイだけのようだが、ステーキは異常に大きい。
ランスは、英語のできない子供や移民の連中のために教室を開くが、そこで教える憲法の基本が、「ワシントンの連中が変なことをしたら投票で変えること」と言うのは泣かせる。さすが『スミス都に行く』のジェームス・スチュアートである。
実は、ランスが来る前から、トムはハリーに惚れていて、彼女のために家の増築をしているところだった。
ランスは、新聞社の協力を得て弁護士事務所を開くが、ついにリー・マービンとの決闘になる。
それは、名うての拳銃使いのリーマービンを最後の弾でスチュアートが撃ち殺し、続いて町の集会で代表に選ばれたスチュアートは、州都での会合でも活躍し、州知事、上院議員になったことが説明される。
この辺の集会や州都での大会も非常に面白いが、今の大統領選挙の運動の原形のようにも思える。
そして、最後にスチュアートは、本当は撃ち殺したのは、反対側に隠れて銃を発砲したウエインであることを明かす。だが、このシーンは、前のと少し違うように見えたが。
スチュアートから真実を聞いた新聞社主は、「伝説は伝説のままでよい」として、インタビューを記事にせず、二人は列車で町を去っていく。この最後の台詞は、監督のジョン・フォードの心情のように思える。というのも西部劇も次第にリアリズムになり、伝説の劇ではなくなってしまうからだ。
さて、『魚屋宗五郎』だが、実は明治16年に書かれている。
河竹黙阿弥の劇の多くのものが実は江戸時代ではなく明治になって書かれているのだ。
その意味は、何だろうか。「時代が変わって今は、ああいう良い男はもういなくなったな」という感想だと私は思うのだ。山田洋次と渥美清の『男はつらいよ』にも、そうした感じはある。
ジーン・ピットニーの『リバティ・バランスを撃った男』は、どこにも流れないが、ジョン・フォードが気に入らなかったのだろうか。
シネフィルWOWW