太陽の塔は、1970年の大阪万博の時、シンボル施設として万博広場に作られたもので、設計は岡本太郎で、ほとんどが撤去された万博の施設の中で、唯一今もある施設だそうだ。
岡本太郎は、一度だけ見たことがある。1966年の6月頃、何かのデモをするために四谷の清水谷公園にいると、白のレインコートできて居てた。その傍には、たぶん岡本敏子もいたと思う。
太陽の塔だけ残っているのは、その迫力で壊せなかったそうで、公園に来る子どもには、怖いと泣く子もいるとのこと。
映画は、まずこの塔が作られる経緯から始まり、お祭り広場という万博の、丹下健三設計の建物の中に、その中心を付きぬくタワーとして建物に穴を開けてしまったものであることが辿られる。本来、丹下先生としては不愉快だったと思うが、岡本の迫力には敵わなかったのだと思う。この政府主催のイベントには、多くの芸術家、特に前衛的と言われていた建築家、美術家、映画監督等が参加した。それについての批判もあったが、今ではそのことを記憶している人も少なくなっただろう。
そこから太郎の人生が振り返られ、戦前にパリに行き、ピカソをはじめ、当時のシュールレアリズムの作家とも交流し、最も重要なアフリカ等の原始美術作品に衝撃を受ける。それは、帰国した後の戦後に、東北やアイヌ、さらに沖縄の美術と、縄文時代の作品への傾倒になる。
図式的に言えば、弥生時代以後の現在の天皇制にまで通じる文化、芸術に対し、縄文を対置することで、平城、平安以来の文化が本来の日本の文化ではないことを明らかにしたのである。
多くの文化人、学者の証言でそのことが明らかにされるが、戦後の「夜の会」への参加のことが描かれていなかったことはやや不満。
そして、ほぼ最後の作品である「明日の神話」が製作され、メキシコでの展示の後、渋谷の東京メトロの通路に展示されたことが描かれる。
最後は、太陽の塔は、チベット仏教の曼荼羅であい、供物のトルマではないかとの説が明らかにされる。
トルマは、神に捧げる供物で、もともとは人や動物を捧げたもので、今はムギコガシを練って円錐形のものを作り、供物とするものだそうだ。
確かに、太陽の塔は、人類と世界への供物であるのかもしれない。
横浜シネマベティ