黒澤明を一言でいったら、プロレタリア作家となるに違いない。時代劇以外の彼の映画はプロレタリア作家映画というべきだろう。
黒澤の甥に島敏光がいて、何も知らない彼は、『影武者』の頃の黒澤の絵を見て驚き、黒澤久雄に「こんなに絵が上手いのに、おじさんはなぜ画家にならなかったの?」と無知な問いをしたそうだ。その時、黒澤久雄は、「親父は家が貧乏だったからだ」と答えたそうだ。
その通り、黒澤は画家を目指していて、京華中学を卒業すると東京美術学校(今の芸大)を受けたが落ちて、プロレタリア美術研究所に通うことになる。これも不思議で、当時すでに帝国美術学校(武蔵野美術大学)はすでにあり、行こうと思えば行けたのであるがなぜいかなかったのか。理由は明らかで家が貧乏になっていたからだ。日本体育会を首になった後、彼の父親の黒澤勇氏には定職も資産もなかったので、黒澤家は貧窮したはずだからだ。
こうした自分の家の貧困と、いきなり貧乏に落とされてしまう社会への反抗意識から、黒澤はプロレタリア美術研究所に入り、作品を発表する。それは、『体系黒澤明・1巻』に出ているが、典型的な社会主義リアリズムで労働者を賛美し、鼓舞する絵になっている。
この頃、黒澤は、若手活動弁士須田貞明として人気を得ていた兄丙午の神楽坂の長屋に居候し、デザイン画や挿絵を描くことで生活していた。父は、当初は映画界に丙午が入ることには反対だったが、当時弁士は人気商売で高給を得ていたので、仕方なく認め自分たちも彼の稼ぎに依拠していたのだと思う。また、黒澤の姉の桃代も、母の森村学園の教師になっていたので、その給与もあっただろう。
いずれにしても、貧困には変わりのない家庭だったようだ。
そして、黒澤明が26歳の時、兄丙午は、トーキーストの委員長になり、会社と組合との板挟み、さらに妻がありながら、情婦に子供ができ、それが死んでしまうと、丙午は情婦と心中してしまう。
黒澤の『蝦蟇の油』には、自殺とのみ書かれているが、実際は愛人との心中だった。
こうなると生活に窮した黒澤明は、新聞広告に出ていたPCLの助監督募集試験に応募する。
この時の、PCLの責任者は森岩雄で、彼は少年時代は映画雑誌の投稿少年で、黒澤明の兄須田貞明とは友人だった。森は、日活企画部から引き抜かれてPCLに入り映画製作の責任者になっていた。そこにかつての仲間の須田貞明の弟が助監督試験に応募してきた。須田は、映画界がサイレントからトーキーになる中で死んでしまったが、自分はトーキー会社で出世した。その弟が応募してくれば合格させるのが人情というものだろう。
この時の口頭試問で、黒澤は人事担当課長からしつこく質問されて不快だったと書いているが、これは森の指示による「出来レース」への担当課長の抵抗というべきだろう。
さて、戦後の黒澤明の作品には、『明日を創る人びと』や『素晴らしき日曜日』のように、普通の労働者、サラリーマンを主人公としてものがあり、彼が依然としてプロレタリア作家であったことを示している。
1960年代では最高傑作というべき『天国と地獄』の主人公の三船敏郎は、今は製靴会社の重役だが、元は靴職人で、言ってみれば、労働者、職工で、現場の労働者の東野英治郎からは、仲間だとされている。
最晩年の映画『夢』のラストの村の祭りのパレードの音楽隊、あれはまさしく人民の音楽隊であり、黒澤は、最後の最後の作品で、出会いたかった人民と幸福に再会したといえるだろう。
これを、横浜の今はない映画館、横浜ニューテアトルで見たときの、かつての日共民青の歌声運動を見せられたような気分の悪さと恥ずかしさは今もよく憶えている。