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Channel: 指田文夫の「さすらい日乗」
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最初は増村保造が監督だった

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用があって昔の『映画芸術』を読んでいたら、1986年11月に亡くなった増村のことを彼の助監督もやった井上芳夫が語っていて、篠田昌浩が監督することになった1972年の『札幌オリンピック』映画は、当初は増村だったのだそうだ。増村とプロデューサーの藤井浩明も、それを機に増村を世界へと飛躍させるつもりだった。

だが、増村があるとき、直接大映の永田社長のところに行き、大映の窮状と自分が働いていないことを訴えた。本当は、その次に「オリンピック映画の話が来ているので、自分はしたい・・・」のでというつもりだった。

ところが、永田雅一はすぐに企画部長を呼び、「早く増村に映画を作らせなさい!」と言い、増村は「オリンピック映画を・・・」という切欠を失ったのだそうだ。

誠に残念なことである。

もし、オリンピック映画を作っていれば、世界的な監督になり、後にイタリアで作った『エデンの園』のような愚作を監督することもなかったはずだからである。

          

大映を出てからの増村の作品では、原田美枝子が主演した『大地の子守歌』が最高だったと私は思う。


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